平穏は年月に流されていては訪れず、闘い続けて得られるもののようだ。14年8月21日
午後遅く、暑さが緩むのを待って散歩へ出た。それでも、ぬるま湯の中をかき分けて行くような蒸し暑さだ。夕日に照らされた崖上で、青空に透き通るようにツクツクホーシが鳴いていた。この声を聞くと60数年昔の、遠くへ遊びに行った時の心細さを想い出す。寂しい夕暮れの道を走って帰ると「何処まで行っていたの」と、母はやさしく迎えてくれた。記憶は不思議なものだ。遠く過ぎ去っているのに、目の前の今より現実的に思える。
今度の引っ越し先の近くに荒川が流れている。今の住まいにない良さはその風景かもしれない。
絵描きに転向した25年前、毎日、夕暮れが近づくと荒川土手に散歩に出かけ、広い河川敷に沈む夕日を眺めていた。インドへは行ったことがないが、それはガンジスへ沈む夕日に似ていると思っていた。
そのころの住まいは都内では珍しい自然林に囲まれた静かな場所にあった。薄暗くなって散歩から帰ると母が台所で洗いものをしている音が遠くまで聞こえた。
「お帰り。夕日はきれいだった」
勝手口を開けると、母は笑顔で迎えてくれた。その明るい声は、子供の頃と変わらなかった。
その家に引っ越して来たのは更に15年前だ。その頃は祖母、両親、兄姉、と家族は一人も欠けることなく揃っていた。その頃の私には若者らしい不満はあったが、元気で勢いがあり、いつも前へ前へ進んでいた。
その家には、毎週末、郊外に住んでいた姉の子供たちが泊まりがけで遊びに来た。
「おばあちゃん」と、にぎやかにやって来た幼い姪たちを母は嬉しそうに迎えていた。その頃は彫金で生活していたので、道具だらけの我が家は、姪たちには不思議でとても楽しい家だったようだ。
姪たちはやがて成長し、訪ねて来るのは間遠くなった。後年「あの頃はとても楽しかった」と、母はよく話していた。それから祖母と父をその家で看取り、兄と姉は母よりも先に死んだ。
今の住まいは、母を死なせるのにふさわしいと思って選んだ。13階の住まいは風抜けが良くて夏は涼しく、冬は暖房なしでも暖かかった。だから、高齢の母には生涯で一番快適な住まいだったようだ。眺望の良さも、今まで暮らした中で最高に良かった。母は玄関前から富士が見えると私に嬉しそうに声をかけていた。その母をこの住まいで看取ってから、早くも5年目に入った。
新居に引っ越しても、荒川土手に行けば富士は見える。しかし、今の住まいからの広大な眺望は望むべくもない。それらの喪失感から、昔のことを走馬灯のように想い出すのだろう。
だからと言って、留まっていも何も解決しない。年月に流されていては平穏は訪れない。本当の平穏は闘い続けてやっと得られるもののようだ。
夕日が差し込む仕事部屋。
昨夜は池袋の台湾料理屋で友人と飲んだ。
私と同年の彼は大きな投資をして事業拡大に励んでいる。と言っても成功が目的ではない。投資を全部失っても構わないと彼は思っている。
店のテレビで広島の地滑りの犠牲者たちを報道していた。
「地滑りの数時間前まで、まさか自分が死ぬとは夢にも思っていなかったのだろう・・・」
友人がポツリとつぶやいた。
明日が保証された人生などあり得ない。挑戦し続けていることで生きていることを実感できる。友人は去年、鉄棒から落ちて頭を打ち、九死に一生を得た。私も、別の意味で九死に一生を得た。だから、話しながら老いて挑戦し続ける意味を共有していると感じた。
窓の外に池袋西口広場が見えた。ポツポツと若者が歩いているだけで静かだった。
「30年前までは若者たちで溢れていて、今のバンコクみたいに活気があったのに、随分寂しくなったなあ」
よく東南アジア旅行に出かけている友人が言った。昔の池袋西口は荒っぽいことも多かったが、今より間違いなく若々しかった。時代は留まることなく変遷し続けて行くようだ。
友人も私も何とか動き回れるのは後5年・75歳辺りまでだ。それ以降は普通に暮らせればめっけもので、年々、確実に弱って死に近づいて行く。だからこそ、今を愛おしむように生きて行かなければならない。
「勇者たち」
部屋の整理をしていて見つけた30代に描いた絵。
引っ越し準備で、徹底的に捨てる予定だったが、今は思い出深い品は持って行くことにした。その一番のものが私が手作りしたテーブルとベットだ。テーブルは母が毎日そこで九州の兄宛のハガキを書き、そのベットで終末期を過ごした。
業者はアート引っ越しセンターに頼んだ。選んだのはフレッツ光会員への特別割引があったからだ。予算オーバー覚悟で、業者が見積もったより大きめのトラックを頼んだ。普通の家庭なら、見積もりサイズのトラックで十分だが、作品類は積み重ねが難しいのでゆとりを取った。
公団に退去届けを出した。退去日、公団から査定員が来て部屋が破損していないか調べ、経年変化だけなら敷金は総て返却される。それで、今日は台所の油汚れを綺麗にした。見かけだけでも部屋が綺麗なら査定員の心証が良くなるはずだ。
明日朝に粗大ゴミを出す。収拾は都の清掃局なのでとても安い。これを引っ越し業者に任せるととんでもなく高くなる。ことに電気製品の廃棄は高額費用がかかる。
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