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2014年8月 6日 (水)

眩しい程に命溢れた夏の日に、親しいペットの訃報を聞いた。14年8月6日

今日は広島原爆の日。その日と同じように雲一つない快晴だった。36度近い猛暑の中、事務手続きのために王子の区役所を訪ね、その後、王子稲荷にお参りした。

参拝者は私以外誰もいない。本殿にお参りした後、蝉時雨の中を崖に祭られた小さな社を巡った。それらは40年前と変わらない光景だ。階段の踊り場に立ち止まり巨木が枝を伸ばす本殿の屋根を眺めていると、昔のことを次々と想い出した。

お詣りの後、加古隆作曲「パリは燃えているか」を聴きながら王子駅へ向かった。曲はNHKの傑作ドキュメンタリリー「映像の世紀」のテーマ曲として知られている。それを選曲したのは、命があることに感謝の念を引き起こしてくれる曲だからだ。

駅で携帯のメールチェックをすると大型犬の小次郎の訃報が入っていた。半月程前から彼は弱り始めて、何度か見舞いに訪ねた。声を掛けると律儀に半身を起こそうとするのが健気だった。弱った彼を見ていると、死期が近づいた頃の母を想い出してならなかった。

死に至る過程は、人も犬もさほど変わらない。食欲がなくなり、肩で息をするようになり、最期は水分すら拒否して眠るように14年の命を終えた。終末期、飼い主のKさんは彼の傍らで寝て、夜昼なく介護を続けた。


赤羽駅構内の花屋で小さな盛り花を作ってもらいメッセージをつけた。

「母が大好きだった小次郎ちゃんへ、母と会ってください」

その言葉を書いたのには訳があった。
母の死の1ヶ月前、車椅子を押して小次郎の家近くを通ると、母は毎回「小次郎くんに会いたい」と話していた。すぐに母が死ぬとは微塵も思わなかったので「そのうち、散歩道で会えるよ」と取り合わなかった。

しかし、それからほどなく母は寝たっきりになり1週間で死んだ。
死の5日前、小次郎はKさんに連れられて見舞いに来てくれた。母は大喜びして小次郎の名をしっかりした声で何度も呼んだ。その頃は心肺が弱っていて殆ど話せなかったので、母にそのような力が残されていたことに驚いた。

小次郎はベット脇まで来て母の手をペロペロなめた。その姿を見ながら、母が最期に会いたかったのは人ではなく彼だったのだと思った。そして、もっと頻繁に会わせてあげれば良かったと深く後悔した。


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7年前、小次郎は7歳の男盛り。94歳の母はまだとても元気だった。小次郎は秋田犬とシェパードのミックス。両方の優れた気質を受け継いで、とても頭が良く優しい子だった。

雲一つない青空の下、彼は旅立った。彼の死で一つの時代が終わったような気がした。元気な頃の彼は、散歩をしている私に遠くから気づいて待っていてくれた。そのような出来事が永遠に消えてしまい、親しんできた風景がなくなった寂しさを覚えた。小次郎を囲み、ゆかりの人たちと思い出話をした。明日、彼は荼毘に付され小さくなって帰って来る。旅立った彼のために、旧作の中から優しい夏の句を選んだ。

 野仏の 笑み優しき 葛の花

昨夜、Kさんから小次郎の写真が送られて来た。大型犬だったが、人と比べると可愛い入れ物だ。


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 友逝きて 夏の光も淡くなり

立秋を迎え、酷暑は遠ざかった。蝉の声にも秋の気配を感じる。成人してから夏の終わりに1年の終わりを感じるようになった。子供の頃の残り少なくなった夏休みを惜しむ気持ちが、今も残っているからかもしれない。


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夕暮れ、風が強く暑さは和らいだ。

昨日、理研のSTAP細胞論文の共著者・笹井副センター長が自殺した。もし、夏の命溢れる風景を眺めて美しいと思うことができたら、彼は自殺をしなかったかもしれない。

以前、元医師で統合失調症のNさんが、統合失調症患者の多くは普通の人の生活に憧れていると話していた。しかし健常者は、笹井氏が死を選んだように世間の荒波を一身に受けて孤独に追いつめられることがある。その点、統合失調症患者はいつでも親身に相談に乗ってくれる専門家がいる。休みなしに襲って来る心の苦しみは辛いが、それらの症状を薬物で上手にコントロールできたら健常者より楽に生きられる。そのようなことをNさんと話した。


時折、思い出したように宝くじを買う。まったく可能性のない希望だが、宝くじの発表まで、1等が当たったら、何に使うか際限なく想像を続けるのは楽しい。買うのは200円5枚で千円だけだが、それで幸せが得られるのなら安い出費だ。

そのような架空の希望の有効性について、精神医学者ヴィクトール・フランクルは、強制収容所体験を記した著書「夜と霧」の中で話している。

収容所で彼は心の中の妻と何度も会話した。その時妻は、別の収容所に送られて、彼の母親とともに死んでいたが、彼は妻がまるで傍らに生きているように楽しく話すことが出来た。

誰でも、大切な家族や愛する人がそこに居なくても、まるで実在するように話すことが出来る。極限の絶望の中で生き抜くのに、そのような架空の希望や安らぎがとても重要だったと彼は記述している。

収容所ではちょっとした偶然でガス室に送られるか、免れるかが決まった。その状況で希望を失い自暴自棄になる者たちは命を縮めたが、生きる目的や、架空でも希望を持つことができる者には生き延びるチャンスが残された。

彼は医師資格が役立ち、収容者のための医師になって行き伸びだ。死の強制収容所に医師を置くのは無意味だが、そこにドイツ人らしい形式主義を感じる。宝くじで得られる一時の幸せも、収容者がひと時夢見た希望に似ている気がした。


S_1仕事部屋にて。

今の住まいは、ものが多過ぎて身動きが取れない。だから、追いつめられるようにものを捨て続けている。ものが少なければ、もっと軽やかに生きられるはずだ。

葛飾北斎は生涯で93回引っ越しした。その中では1日に3回引っ越したこともある。それが可能だったのは家財道具が少なかったことと、どんなものでも古物商が買い取ってくれたからだ。

当時は家財道具総てを売り払って、新居で買いそろえることが容易だった。その形なら、引っ越しの費用は殆どかからない。当時は欠けた茶碗でも、破れ布団でも買値がついて、ゴミとして捨てられるものは殆どなかった。だから、北斎の引っ越しは、気に入っている僅かな道具や衣類と画材などを新居へ運ぶだけで終わった。

今は問題なく使える電気製品でも、新品同様の衣服でも売るのは難しく、こちらから費用を出してゴミとして引き取ってもらっている。

今日は古いMac2台とタンスを解体して捨てた。Macのメモリーとハードデスクは解読できないように破壊しておいた。タンス一竿はバラバラにしてノコで切断し、ゴミ袋4個に収めた。

姉も身の回りのものを捨てていると話していた。先日、早世した一人息子の遺品の、壊れた古ぼけた目覚ましをゴミ袋に捨てた。すると早朝、ゴミ袋の中で捨てた目覚ましのベルが鳴り始め、すぐに取り出した。その甥が死んだのは20年以上昔で、その目覚ましはその頃から壊れていて動かなかった。

「捨てないで、と言っているみたいで、可哀想で捨てられなかった」

姉は寂しそうに話していた。私も母の遺品で捨てられないものが沢山ある。殊に古ぼけた粗末なものほど捨てられない。母の好きだった椅子の脇に、今も竹の物差しが置いてある。尺寸の目盛りで母は着物の採寸に重宝していた。物差しの裏には昭和17年8月10日と購入日が書かれている。邪魔にはならないので、私が弱るまではとっておくことにした。

Ma_3

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Goof

Mas

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