荒川風景と、豊かさを享受できない日本の欠食児童たち。14年9月26日
人生の総括ばかりしている。これまで仕事は十分な利益があげられることを目的にしてきた。28歳から祖母、父、母の扶養と介護を続けて来たので、それは仕方がないことだ。しかし、介護が終わり、住宅費負担が減った今はその必要は薄れている。
これからはより自由に、画家を目指した頃の初心に戻ることができる。しかし、老いた今は若い頃の制御できない程の激情にはほど遠く、静かにしみじみと描くことになりそうだ。
今日の荒川風景。と言っても正確には人工の荒川放水路である。旧荒川はうねうねと蛇行し、大正末に荒川放水路に水路を変えるまでは、その名の通り荒ぶる川で首都は洪水に悩まされ続けた。
首都を守る荒川土手は絶えず草刈りなどで手入れがされている。しかし、住まい下の土手はまだ刈られていなくてキバナコスモスや彼岸花が美しい。この土手への階段は64段で5階建ての高さだ。
キバナコスモスにスズメがとまっていた。荒川土手の動物たちはどこかのんびりしていて、カメラを構えても逃げない。
荒川土手のこのあたりに、ハシボソガラス5.,6羽の小さなグループがいる。昔はありふれたカラスだったが、今の都内はハシブトガラスに入れ替わった。ハシブトガラスよりおっとりしていて、出会っても逃げたりしない。民話などに出て来るカラスの殆どはハシボソガラスだ。
ハシボソはハシブトのようにゴミ置き場を荒らしたりはしない。写真のカラスたちは草の刈られた土手でバッタやミミズを食べている。植物食の傾向があり椎の実などの木の実も大好きだ。
私の育った南九州ではカラスはハシボソばかりだった。隣町目井津の虚空蔵島に沢山住み着いていて、地元では虚空蔵菩薩の使いとして大切にしていた。
彼らは毎朝、餌場へ出かけ1日食べたり遊んだりして過ごした。夕暮れ、大挙して虚空蔵島へ帰る群れを見上げながら「カラスが鳴くから帰ろ」と、遊び疲れた私たちも夕餉の香りが漂う我が家へ駆けて帰っていた。
ハシボソガラスと鳶の餌の取り合いは面白かった。鳶は視力が良く、カラスより先に餌を手に入れた。それをカラスたちは頭脳プレーで落とさせ、空中で奪っていた。母はそれを眺めるのが大好きで、童話にして、よく話し聞かせてくれた。
荒川土手は360度空が広い。赤羽北の公団アパートへ引っ越す前の赤羽台に住んでいる頃は、毎日のようにこの夕空を眺めに散歩に来ていた。次に引っ越した公団アパートは荒川土手に近かったのに、何故か殆ど行かなくなった。
だから、この夕景色を眺めると赤羽台の家を想い出す。太陽が斜めになると、急いで飛び出して荒川土手へ向かった。その頃は埼京線も新幹線も建設前で、途中の環八は土地買収前の狭い道だった。
新幹線建設予定地には袋マーケットと呼ばれた昭和の面影濃い小さな商店街があった。そのほの暗いアーケードを抜けると、材木屋と"関東一不味い"ラーメン屋があった。その一帯は工場地帯で労働者向けの飲み屋や寿司屋が多くあった。消えてしまったそれらの昭和の風景を写真に撮っておけばよかったと思っている。
荒川土手は今より野趣豊かで、土手上に細い道があった。それをしばらく浮間池方面に歩くと、工場の間に、畑や茅葺きの農家が散見された。その頃、土手下で雑貨屋をしていたお婆さんによると、工場務めの人がパンなどを買ってくれるので、1日に4,5回は仕入れ、儲かって儲かって仕方がなかったと話していた。今、それらの工場や畑地はマンションに、茅葺き屋根の農家は豪邸に建て変わった。
散歩道の彼岸花。
先日、50年以上昔の東京オリンピック前のNHKアーカイブスを見た。当時はベビーブームで、人口爆発のために東京は疲弊すると考えられていたが、今思うと可笑しい。当時の人は半世紀後に少子高齢化が訪れるなど夢にも思っていなかったようだ。
意外にも、過疎や廃村が起き始めたのはその頃だった。それまで、それらの村落は千年以上の歴史があったのに、道路が出来て鉄道が開通すると、山村の若者たちは大挙して都会へ出て行った。若者が居なくなった村落は脆く、多くは二年足らずで消え去った。
その頃、昭和35年の暮れ、宮崎県北の奥地大崩山を登山したことがある。今は廃線になった高千穂線の日之影に登山口があった。日之影はその名の通り、谷底の日の当たらない寂しい町だった。近くにスズを産出する見立鉱山があり、当時はまだ採掘がされていた。
九州でもその一帯は寒さが厳しく積雪がある。3日ほどかけて険しい岩山の大崩山系を踏破して、大晦日に延岡奥地の祝子川方面へ下山した。その一帯は田舎育ちの私から見ても僻地で、山林労働で細々と暮らしていた。
延岡へ向かう細い道路脇に、正月の晴れ着で盛装した女の子が一人立っていた姿が鮮明に記憶に残っている。モータリゼーションはまだまだ先のことで、盛装しても出かける町はなく、ただそうやって誰かが通るのを待っていたようだ。
延岡へ着いて、うどん屋へ入ると薄汚れた父子の先客がいた。父親はうどん一杯だけを頼んで幼い息子に食べさせていた。父親は顔色が悪く、どこか病んでいるように見えた。今なら父親は公費で治療し生活支援を受けただろうが、当時の日本は貧しく、それはありふれた光景だった。
昨夜のクローズアップ現代で、貧困で満足に食べられない子供たちを取り上げていた。飽食の時代と言われているのに、貧困のため、満足に食べることがままならない子供が16.3%いると言う。
その一方、全食品の25%のまだ食べられる食品が捨てられている。この現実では、捨てられた食品を手に入れるホームレスの食事の方が遥かに豊かだ。NPOのフードバンクが捨てられる食品を貧困家庭に配る運動をしているが微々たるものだ。
小子高齢化を問題にして子供を増やすことを奨励している政府の支援の動きはとても悪い。産めよ増やせよと言っている一方、栄養失調で衰弱した子供たちを放置している政策は理解し難い。
番組中で、困窮して満足に食べていない15歳の男の子が小遣いがないと嘆いていた。しかし、嘆くだけで行動しない姿勢も不可解だ。我々が子供の頃は、15歳くらいになれば、新聞配達、牛乳配達、廃品回収で小銭を稼いで何とかしていた。
日本より豊かな米国では、豊かな家庭の子供でもアルバイトをして自力で小遣いを稼いでいる。日本はものがないのではなく、システムや生き抜くための知恵やエネルギーが不足しているように思えてならない。
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