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2014年10月23日 (木)

どんなに大変な介護にも解決方法があるが、死別後の喪失感を埋めるのは難しい。14年10月23日

住まい下の河川敷にセイタカアワダチソウが大繁茂している。今年は、くしゃみ鼻水から解放されて有り難いと思っていたら、先週から花粉症が始まって、猛烈なくしゃみ鼻水に悩まされた。

今日は高齢者用肺炎球菌予防接種を受けた。ついでに、抗アレルギー剤を処方してもらい、今はスペアミントの風が鼻腔を吹き抜けるように爽やかだ。

予防接種を待つ間、待合室のアエラを読んだ。
主要テーマは「介護で人生をあきらめていませんか?」だった。介護の専門家や介護経験者が分かりやすく対処方法を述べていた。

私は母を8年間介護したが、母には認知症はなく手はかからず、記事に登場する老親たちと比べると、とても楽だった。

私の生活は介護が始まっても介護前と殆ど変わらなかった。私は長距離走が得意で、介護前も毎日15キロは歩いていた。介護は私の散歩に母の車椅子が加わっただけで大して苦にはならなかった。雨の日も風の日も雪の日も、10キロ以上車椅子を押した。坂道の多い赤羽での車椅子押しはかなりの重労働だったが、良いトレーニングになるとポジティブに考えていた。おかげで、介護中に車椅子を押した距離は2万キロを越えた。


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自然公園にて。雪の後の95歳の母と63歳の私。

毎日、自然公園や遠い商店街に連れて行ってもらい、母は元気な頃より交遊が広がった。春は一生分の何十倍も花見が出来たと母は喜んでいた。街中でも多くの知らない人から声をかけられた。
私は料理洗濯などの家事を若い頃から続けていたので、母の世話が加わっても何なくこなせた。

そんな私を医療関係の版元が注目して、介護についての単行本の執筆依頼が来た。
「私の介護経験は特殊なので、書いても売れませんよ」
固辞したが、編集の力で何とかできるからと頼み込まれた。

受けた以上全力で書き始めた。しかし、危惧したように売れそうな本にはならず、半年後に企画は頓挫した。

介護していた頃は分からなかったが、介護の本当の問題点は思いがけない所にあった。それを知ったのは死別して介護が終わってからだ。

アエラの記事には、充実した介護をすれば死別した後の喪失感が小さいと書かれていた。それは血縁関係の親には殆どあてはまらない。むしろ、誠実な介護をすればする程に喪失感は深刻になる。

死別後の調査では、親を失くした後、25%の人は5年後も立ち直れない。更にその10分の1の人は深刻な鬱を引き起こす。私は哀しさ寂しさを包み隠さずプログなどで吐露することで、心の安定を保てた。しかし、多くの遺族たちにそれはできず、荒野を独り行くような寂しさを味わうことになる。

今まで、死別の辛さを数限りなく耳にして来た。介護はどんなに大変でも解決方法があるが、死別後の喪失感を埋める方法は何もない。あるとすれば、ひたすら哀しみ、辛さを訴え、誰かに寄り添ってもらい、長い年月を耐え抜けば、やっと死別の哀しみは懐かしい想い出に変化する。
介護についての著書は本屋のコーナーを占めるほどに多彩にある。
しかし、死別後のグリーフケアについては殆ど見当たらない。報われない喪失感を説明しても読者は突き放さるだけだからだ。


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雨の御諏訪神社の坂道。


姉は新橋で小さな小料理屋を任されている。昨夜、姉の帰宅は深夜になった。夜道が怖いから途中まで出迎えに来てくれと北赤羽駅から電話があった。深夜の出迎えは、こちらへ引っ越して来てから二度目だ。帰りが遅くなるのは仕事が忙しかったからで、悪いことではない。
「今月は厳しかったけど、後半で持ち直しそう」
夜道を歩きながら、姉は仕事の話をした。
「これからも大変なことがあるだろうけど、何とかなるよ」
私は答えた。
言った後、母の口調に似ていると思った。
母は仕事が厳しいと話すと「大丈夫、何とかなるよ」と必ず慰めてくれた。
裏付けも根拠も何もなかったが、母に言われると何となく安堵した。
そしていつの間にか危機をしのいでいた。


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雨の荒川土手。


新居への引っ越し通知は、緊急性のあるごく一部の人たちだけにメールした。メールに無縁な九州の身内たちにはハガキで通知する予定だ。

今のところ、2ヶ月待って年賀状を兼ねた転居通知を出そうと思っている。もしかするとそれで、長年の念願の、年賀状のやり取りを一気に30人くらいに減らせるかもしれない。
私宛の年賀状が宛先不明で戻って来て、ついに行方不明か死んだかと噂されるのもいいものだ、と思っている。

仕事部屋に父のデスマスクのスケッチを貼った。
享年79歳。闇金からの過酷な取り立てに気落ちして死期が早まった。それがなければ85歳くらいまで生きたかもしれない。しかし、追い込まれる原因を作ったのは、いい加減な人間の保証人になった父自身にも責任がある。だから誰も恨んではいない。その父の死の歳まで私は10年足らずだ。10年など一瞬に過ぎる。いや、それ以前に死ぬかもしれない。


雨の日も風の日も雪の日も、散歩コースの同じベンチに腰掛け、音楽を聴きながら30分ほどぼんやりしている。初めてそのベンチに腰掛けてから10年が過ぎた。その腰掛けている時間だけは、生きている実感がする。

ベンチ前のトチノキは、毎秋、黄葉して葉を落とし、雪を積もらせ、春には美しく芽吹く。ベンチにぼんやりと腰掛けていると、早回しのフイルムのようにそれらの情景が去来して、時間が止まっているように感じる。


先日、白黒動画をCGで彩色した「東京の100年」を見た。
国立競技場のシーンで、作家杉本苑子は学徒出陣の雨の神宮競技場から、好天のオリンピック行進まで共にその場にいた。その激動の20年は一瞬に過ぎたと彼女は話していた。

記憶の積み重ねは、時間を一瞬に圧縮する。強い記憶は身近に、儚い記憶は遠くに過ぎ去る。例え100年生きたとしても、積み重なった記憶が薄く軽いなら、生きた年月は短い。逆に濃く熱く生きれば、短い年月でも充実したものになる。

自分を形作っているのは記憶だ。記憶の海に浮かぶ小島に私は一人立っているのかもしれない。
小島を形成するのは鮮烈で力強い記憶で、儚い記憶は海中へ沈んで消える。
鮮烈な記憶であってもすぐに色あせ、常に新しい記憶と入れ替わる。そして、歳を重ねるに従って、総ての記憶は力を失い、脆く崩れて私の命は記憶の海に消える。


それにしても、日本は世界一の災害列島だ。世界の災害被害額の25%は日本で起きたことだ。その災害によって、日本人の強靭な資質は形成された。

大正時代の関東大震災の時も、被写体の被災者たちは穏やかに微笑んでいた。それは、世界から賞賛された三陸大津波の後の被災者の秩序正しさと変わりなかった。そして、関東大震災からも、大空襲からも、驚く程に早く立ち直っていた。

日中関係において、中国は経済制裁をちらつかせ日本を脅して要求を飲ませようとしたが、日本は屈しなかった。それは災害民族の特性を中国が見誤ったからだと思っている。


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