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2014年10月 3日 (金)

ジョンレノンとスティーブジョブスが般若心経に心酔したのはロックだったからか。14年10月3日

遠くを救急車のサイレンが過ぎて行く。10月に入ったのに蒸し暑い午後だ。ふいに、旧居から眺めた雨上がりの奥秩父山系を想い出した。澄み切った空の山の端にかかった雲が清々しい清澄な広がりは、今も繰り返し思い出される。


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移転前7月、旧居から眺めた夕暮れの雨上がり、奥秩父山系。

歳を重ねるに従い、失うことばかり続く。だから2年前の「100分de名著・般若心経」再放送に惹かれたのかもしれない。

番組では、既成概念を総て否定するロックは般若心経の神髄と似ていると言っていた。ロックでは決まりきった社会規範をno,no,no と否定し、激しく革新を主張する。文化の革新を目指したジョンレノンやスティーブジョブスたちも同じものを感じて、般若心経に心酔したのかもしれない。
--英語圏では、般若心教はHeart Sutraとして広く支持されている。

ジョンレノンのイマジンの歌詞から抜粋すると・・・
天国なんて無い・・地面の下に地獄なんて無い・・国なんて無い・・殺す理由も死ぬ理由も無く・・・宗教も無く・・何も所有しない・・そして、総てが無くなることで、世界は一つになる、と結んでいる。それはまさしく般若心経の神髄と重なる。


釈迦は正しい行いをすることで煩悩から救われると説いた。しかし、般若心経では正しい行いすら"無"だと言い切っている。それは単純な否定ではないのだが、否定として大きく曲解して犯罪を犯したのがオーム真理教なのだろう。

般若心経では、拒否も肯定も共に"無"として、あらゆる枠から解放され自然に生きることが本当の生き方だと説いている。自然な生き方をすれば悪いことはしない。自然に生きる限り、人は釈迦が説いたように正しい行いをして煩悩から救われる。

般若心経は総てを"無"としているが、失恋して髪を短く切って過去を否定することとは違う。般若心経は総てを否定するのではなく、否定も肯定もせずあるがままに受け入れよ、と説いている。

般若心経には、総ての枠組みを壊して新しいものを生み出す力がある。だから、多くのアーティストが惹かれるのだろう。私は名刺サイズの教典を持ち歩いている。開いて読むことは無いが、行き詰まった時に救ってくれるお守りみたいなものだ。

「老いるに従って心は軽くなる」
番組中の寸劇での台詞が心に残った。
若い頃は性欲や物欲が強過ぎて、満たされない苦しみが常にあった。しかし、老いると物欲も性欲も衰え、心は軽くなって行く。だが哀しいかな、凡人である私は喪失感をいつも重く抱えている・・・


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昨日は東武デパート6Fでの水野恵理さんの作品展初日だった。散歩友だちのTちゃんを誘って見に行った。彼女は混合技法と呼ばれるヨーロッパの古い技法の第一人者で、精緻で静謐な画風の根強いフアンは多い。期間は10月8日木曜日まで。興味がある方は是非ご来場下さい。

水野さんとは久しぶりの再会で、ビールを飲みながら積もる話をした。会わなかった間に私たちの周囲は激変した。企業買収を重ねて、飛ぶ鳥を落とす勢いだった共通の知人は18億近い債務を抱えて自己破産した。絵描き仲間も、身近な人たちも数多く鬼籍に入った。

 ・・・ 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす  おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし・・・

この世は常に移り変わり、留まることは無い。


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夕暮れの荒川土手。

深夜、荒川河川敷の虫の声が聴こえる。今日は真夏の暑さで、散歩道で蝉が鳴いていた。蝉は飛翔力が強く、旧居の13階まで飛んできていた。今年の夏は足にぶつかる程に蝉が多く、毎朝、玄関前通路に数匹の蝉が仰向けに転がっていた。蝉の死は実に淡々としていて「蝉のように死ねたらすばらしい」といつも思っていた。


最近、午前1時過ぎに就寝し朝5時に目覚める。若い頃のように7時間以上連続して眠ったことはほとんどない。目覚めると雑用をして朝食を摂る。そのあとネットでニュース読んでいる内に突然眠くなり30分程眠る。

読んだ中のサイエンス記事で、宇宙では時間が逆に流れることがある、とあった。と言っても未来の自分が未来の記憶を保持して過去へ戻る訳ではない。だから、私が未来から来たとしても、未来の記憶がないので、時間が逆流した意識はない。

そのように宇宙には想像を絶する凄さがある。生まれたばかりの宇宙は原子よりも微小だったとか、スプーン一杯で何億トンもある星があるとか、理解し難いことばかりで、現実の悩みが些末に思えて来る効果がある。


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深夜の電話ボックス。
携帯が普及してから使う人が居なくなり、何となく、人待ち顔に寂しそうに見えた。


長崎県諫早市出身の役所広司がラーメンについて語っていた。同じ九州出身なので私も同じ想いがある。

宮崎市に暮らしていた50年以上昔、よく家族揃って映画を観に行った。当時は2本立てが殆どで、夕暮れに入館して見終えると10時を過ぎていた。当時は外灯が少なく、冬の夜など月が煌煌と道を照らしていた。

町の所々にラーメン屋があった。外まで美味しそうな香りが漂っていて、親の懐具合が良い時はラーメンを食べさせてくれた。

店内には、白濁したスープと麺をゆでる大釜が二つあった。注文すると煮ザルに麺を放り込んで茹でた。どんぶりにはあらかじめ調味料と背脂が入れてあった。そのどんぶりに麺を盛り、白濁スープを注いで焼豚を並べ、シナチク、青ネギ、もやし、などをたっぷりと盛った。それに胡椒をかけて、ふーふーしながら食べたラーメンの美味さは今も忘れられない。

役所広司の語るラーメン讃歌もそのような想い出だった。ラーメンは映画の帰りによく食べていたせいで、例えばアランドロンの「太陽が一杯」などとコラボして記憶している。


最近の東京ラーメンは多彩に美味しく変化したが、上京した昭和30年代は単調で不味かった。だから、友人たちと集まると、何とかして郷里のラーメンを再現しようと苦闘した。

インスタントラーメンは発売されていたが、我々の味覚では不味くて食べる気にならなかった。完全なインスタントではないが、スープの素と乾麺を組み合わせたものは売られていた。こちらは郷里の味に近かったので、市販の焼豚やもやしを盛って、物足りなさを感じながら食べていた。

郷里のラーメン屋の焼豚はどれも自家製で、お昼頃から店先の七輪でコトコト煮詰めていた。それは本格的な作りではなかったが、南九州は素材の豚肉自体が美味しかった。

母が元気な頃、車椅子を押しながら、よく映画帰りのラーメンの話をした。母も煌煌とした月の光や、未舗装の夜道が白々と輝いていた記憶を共有していた。比べて姉はラーメンの記憶のみに留まり、情景までは想いが広がらず、少々物足りなさを感じる。

介護期間中、それまでの総ての人生を合わせたより多く母と会話した。だから今も、独り言の相手は母ばかりだ。例えば、テレビから昔の流行歌が流れて来ると、母はその時代の想い出を話しかけて来る。赤い鳥や月の砂漠が流れると、大正時代の自由で楽しかった子供の頃を話しかける。母の人生の大半は昭和だったが、終生、大正ロマンの自由な空気を色濃く残していた。


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