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2015年1月 2日 (金)

年回りが悪いことの本当の意味と、運を良くする方法と、戦後70年のサブカルチャー史。15年1月1日

2015年、あけましておめでとうございます。


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今年の年賀状。「メーメー くろ ひつじさん」
昔、絵を担当した学研の絵本マザーグースから転用した。


年始には多くの人がその年の運勢を気にする。
運勢で、良い年だと言われたら大抵の人は喜ぶ。しかし、悪い年回りで何をしても失敗すると言われたら多くの人は困惑する。

悪い年回りの本当の意味は誤解されている。
本当は、巧くいかないことが多くても気にせずのんびり過ごしなさい、と言った意味だ。言い換えると、年回りが悪いとは、荒い目のザルで運をすくっている状態のことだ。漏れ落ちる運は確かに多いが、失敗を気にせずのんびり続ければ、必ず引っかかる運があって、ほどほどに幸せな年回りになる。

現実にはどんなに運の良い年でも100パーセントの成功率なんてありえない。3割だってとても難しい。私の経験では、運の良い年での仕事や恋の成功率は1〜3パーセントくらいのものだった。

悪い年はそのように受け止め、のんびり過ごせば、ほどほどの結果を得られるものだ。そして、失敗は良い教訓として受け止めれば、いつか役立ち大きな成功につながる。むしろ、成功率の高い幸運な人の方が、大きな取り返しのつかない落とし穴に陥ることが多い。


先日、NHKでやっていた、英国の学者リチャード・ワイズマン博士の「運の良い人」の研究は面白かった。

彼の実験では、新聞の写真を数えさせる簡単なものだ。
ほとんどの被験者は真剣に最後まで数えて、52枚と正解を出していた。

当然、その実験には引っ掛けがあった。
それは、新聞を開くとすぐに、大きな活字で「もう写真の数を数える必要はありません。正解は52枚です」と書かれていたことだ。
そして、次のページに同じく大きな活字で「もし、写真の数を数えるのを止めたら5万円を進呈します」と書かれていた。

それらを見つけて数えるのをやめ、正解した少数の人は、聞いてみると確かに運の良い人だった。その一人のラグビー選手はシーズン中は絶不調だったのに、全日本の決勝で大活躍しMVPを獲った。もう一人は100円で3連の馬券を買ったら100万に大化けした。

博士の説によると、卒業写真で笑っている人は運が良いようだ。
それは、写真を数える実験と同様に、柔軟な適応力やおおらかさが運を招き入れた結果だった。失敗を恐れず、のんびり行動していれば、誰でも幸運が舞い込むようだ。

かく言う私の今年は良い年回りではない。
スーパーの初売りで並んだレジ担当がど素人で、カード決済の客に右往左往し、他のレジの3倍は時間がかかってしまった。しかし、運が悪いと思ったら本当に運が悪くなるで、のんびりかまえて待っていた。運が悪い時は気にしないのが一番の対応策のようだ。


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大晦日の散歩道のネコ。
「ヒマだにゃー」
と背伸びをして行った。
このあたりにいつもいて、とても人懐っこく、呼ぶとすぐにやってくる。


傍のテレビでNHKスペシャル・戦後70年をやっている。
ゲストはタモリ,堺雅人,中園ミホ,半藤一利、各氏。
敗戦の日の皇居前広場で泣いている人の写真について、終戦時15歳だった半藤一利氏が負けて泣いた記憶がないと話していた。
そのことはタモリも親世代に聞いた話として賛同していた。
そう言えば母も「敗戦日に泣いていた人は一人も見なかった」と話していた。

「皇居前広場で泣き崩れている有名な写真は、それを1面に使った新聞社のやらせではないか」
タモリが疑問を呈していたが、泣き崩れていた女性は、すっきりと髪を編み上げた色白の美人で、あの時代の疲れ切った庶民には見えなかった。もしかすると、彼女は女優かモデルだったのかもしれない。
ちなみに、私はタモリより7ケ月年長の戦中生まれである。


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暮れの氷雨の日のヒュウガミズキの蕾。
寒くても、すぐそこまで春はやって来ている。


暮れから正月、Eテレ深夜枠で戦後サブカルチャー史をやっていた。
60年代は新宿の時代だ。
フーテン、状況劇場・唐十郎の赤テント、寺山修司の天井桟敷、アートシアターの新宿文化座に蠍座と、次々とほろ苦くて懐かしい光景が映し出された。60年代の私は芸大に滑って、再受験は止め彫金職人を目指していた。

その頃の私は自由時間もお金も十分にあり、アートシアターの低予算映画や演劇に熱中していた。映画で真っ先に思い出すのは岡本喜八監督の「肉弾」だ。無謀な特攻兵器、魚雷にくくりつけられたドラム缶の操縦席で敵艦を待つ兵士役は新人の寺田農。彼の恋した少女は映画初出演の大谷直子だった。10代の彼女は初々しく豊満なヌードを披露し、今も鮮明に記憶に焼き付いている。

アートシアター作品は余すことなく見ている。
隣接する小劇場の蠍座では、演劇だけでなく実験映画も公演していた。CM作家だった大林宣彦監督の実験映画も蠍座で見た。映画には尾道が登場し、後の「転校生」を見た時、そのイメージが重なった。

番組で取り上げていた学生運動や、新進気鋭の役者、作家などがたむろする風月堂などには縁がなかった。実際は縁がないと言うより群れるのが嫌いで、殆ど単独行動ばかりしていた。だから、知人に誘われても行かなかった。

70年代は好景気で、米国直輸入の軽いデザインやアートがもてはやされた。
しかし、発信地米国でのアンディ・ウォーホルなどのポップアートは、根底にベトナム戦争で荒廃した若者たちがいて、見かけより重いものだった。対して日本のそれは、上辺だけ真似た底の浅いもので、当時もてはやされていたほどに私は評価できなかった。

60〜70年代に熱中したのは漫画だ。白土三平、つげ義春、赤塚不二夫、と綺羅星のように漫画史に残る作家が登場した。本当の日本のポップアートの旗手は、彼らだったかもしれない。

80年後半からのバブル期には恩恵をうけたが、60・70年代より嫌いな時代だった。
しかし、その時期に絵描きに転向して巧く行ったので悪口は言えない。もし、バブル期を外していたら私は絵描きとして認められなかった。


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今日の夕暮れ、荒川土手から眺めた旧居。
中央の上から2番目の13階に住んでいた。

住んでいた痕跡は全て消えて懐かしさはない。
しかし、死の前年の大晦日、母がおせちに使うクワイの皮をむいていた後ろ姿を懐かしく思い出す。
新居では姉と同居しているが、おせち料理は総て私が作った。理由は私の方が料理が上手だからだ。


タモリはバブル期にはすでに売れていた。
その頃、私は劇団七曜日の宣伝美術をしていた。リーダの渡辺正行氏が「オレたちひょうきん族」に出演していたので、曙橋にあったフジテレビに打ち合わせに行っていた。収録スタジオにはタモリ、さんま、たけしと、今思うと、とんでもなく豪華なメンバーがいた。

NHKスペシャル・戦後70年で、タモリが、その頃、銀行から20億のビルを買えと勧められた話をしていた。
「20億のビルを買っていただけるなら、それを担保に20億を融資します。だから自己資金は1円も要りません。返済はビルの賃貸料が月々入るので、20年くらい払い続ければビルは自己出費なしで自分のものになります」
「もし、払えなくなったらどうする」
タモリは聞いた。
「その時はビルを売ればいいでしょう。不動産は年々値上がりしているから、途中で売っても大儲けですよ」
「もし、20億で売れなかったらどうする」
「そんなことは、絶対ありえません」
銀行員はタモリを算数が出来ない人だと笑い飛ばした。

それから間もなくバブルは崩壊した。
売りつけられたビルがどうなったのかタモリが調べると、3億で売りに出ていた。もし彼が買っていたら大変な借金を抱えることになった。

私の身近にも、同じように銀行の口車に乗って破産した者が沢山いる。
破産した知人が営業をかけた銀行に抗議に行くと、担当者はとっくに他支店に移動していて、泣き寝入りさせられた。

タモリはバブルが終わってからが好きだ、と話していた。
それは私も同じだ。だから今の中国の富裕層の贅沢を見ていると、恥ずかしさを覚える。

今のインターネット時代は好きだ。
80年代以前は群れの時代で、認められるには、立ち位置の良いエリートの群れに属している必要があった。その代表が出版界だ。私が出版の仕事ができたのも交友関係からの人脈だ。もし人脈がなかったら、一生、出版には関われなかった。

今は特定の集団に属していなくても、ネットを使って様々な可能性が広がる個の時代だ。出版文化や従来の絵画市場が衰退し始めたのは、個が突出し始めたからの気がする。


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荒川土手の災害用のヘリポート。
凍るような風の中、若い男女がサッカーをしていた。


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Goof

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