« 60代最後の日に思うこと。「表現・言論の自由」の耳ざわりの良さが覆い隠す汚れた傲慢さ。2015年1月15日 | トップページ | 日本では難しい「ウソつきを見抜く方法」。知的なほどウソをつき、ウソは文化の一部。15年1月23日 »

2015年1月19日 (月)

ゼロ戦鍋に見た70歳3日目の不思議な明るさと、Y氏の訃報。15年1月19日

5時に目覚めた。寝たのは3時なので眠り足りない。テレビを点け、ぼんやり音を聞いているうちに二度寝してしまった。

夢うつつに「蛍の光」が聞こえて、再び目覚めた。テレビでは「マッサン」の別れのシーンをやっていた。床の中で聞いた「蛍の光」は60代に別れを告げた自分と重なって心に染み入った。
ドラマは大阪での近所の人たちとのやり取りは楽しかったが、挫折ばかりの仕事シーンは息苦しかった。やっと、北海道での再出発に展開し、羊蹄山を眺めながら馬車で行くシーンは清々しい開放感があった。

70歳に入ってから3日が過ぎた。思っていたより気分は明るく、冬日差しのように静かな心境だった。しかし、これからは加速度的に生死を分けるほどの厳しさを迎えるはずだ。仮に5年後に死んでも、世間は少しも違和感を感じないだろう。だから1日1日をしっかりと、大地に刻み付けるように生きなければならない。


M_2


鏡のような新河岸川と荒川土手。
土手の向こうに荒川河川敷が広がり、荒川が滔々と流れている。


17日は阪神大震災20周年だった。
阪神大震災からオーム・サリンと大事件が続いた1995年の5月、読売・大日本印刷・JR西日本三社の後援で大阪セルベスギャラリーで作品展をした。画廊があった大阪駅コンコースは、サリン再発阻止のために機動隊があちこちで厳戒態勢を取っていた。それでも、作品展には1日1000人以上の来客があって、テレビ取材も受けた。


会期中に神戸で救援活動をしていたY氏を訪ねた。当時、私はY氏の震災ボランティア活動に協力し、新聞社主催の救援チャリティーに作品を寄贈していた。

大阪は無傷だったが、電車が尼崎市から神戸へ入ると倒壊家屋が増え始めて、戦地へ乗り込むような緊張を覚えた。記憶は曖昧だが、Y氏の活動拠点は長田地区辺りにあった気がする。公園の中に建てられたログハウスが事務局で、隣のテントに食料が山積みされて、昼夜なく、誰でも自由に持って行くことができた。

公園の周囲には終戦直後のような焼け野原が広がっていた。焼けて赤錆びたトラックを見た一瞬、子供の頃見た空襲を受けた博多の焼け野原がフラッシュバックした。

Y氏は被災地を案内してくれた。
「焼け跡を掘ると、まだ、人骨の破片が沢山でてきます」
黒く焼け焦げた住宅地のあちこちに供えられた花束に彼は合掌した。
震災から4ケ月過ぎていたが、まだ瓦礫の中に亡くなった人たちが多く埋まっていた。

無傷に見えるビルでも、近づいてみると壁や柱を捻るように亀裂が走っていた。殊に、一階を広く駐車場や店舗にして、柱で支えた建物は木造も鉄筋コンクリートも壊滅状態だった。対して、箱型の部屋を積み上げたような集合住宅は比較的無傷で残っていた。


今も、5月のギラギラした陽光に照らされた荒野が眼に浮かぶ。
あれから20年が過ぎた。
今年1月5日、Y氏が63歳で心不全で亡くなっていたことを朝日の記事で知った。その日、私は訃報を知らずに「なんて美しい月夜だろう」と荒川土手を散歩していた。記事には、満月の日に死にたいと生前話していた逸話があったが、彼は望み通りに旅立ったようだ。

Y氏のボランティア活動は清濁併せ呑むところがあって、他の活動家たちからは不純だと厳しいバッシングを受けていた。
「ボランティア活動は、少なくともスタッフの給料を払えるくらいの利益を上げないと挫折する。それが欧米流だ」
神戸で会った時、彼は熱弁をふるっていた。

彼がバッシングを受けた原因は、左右関係なく、少々怪しいところからでも寄付を集めていたからかもしれない。他に知らない裏面があったとしても、鬼籍に入った今、詮索する気にはなれない。


私が最後に彼に会ったのは、2010年3月、母が死ぬ4ケ月前だった。私は母の介護による過労に加え、収入も途絶えて命の危険を感じるほどに追い詰められていた。その頃、家賃を滞納して公団に退去を求められている、と一度だけブログに書いた。たった一行のその言葉を彼は読んで、すぐに赤羽へ飛んで来た。

「お母さんのことは心配いらない。絵を売って必ず何とかするから私に任せてほしい」
彼はそう言って、作品を20枚ほど、妻の運転する車へ乗せて帰った。万策尽きていた私は、もう、どうなってもいいと思っていた。だから、作品を彼に任せることに何の不安も躊躇もなかった。

彼が帰った後、奇跡はすぐに起きた。絵を予約してくれた人たちが、次々とお金を振り込んで来て苦境は一瞬で解決した。彼は1円も仲介料を取らなかった。

お金が入って苦境を乗り越えられたと母に話すと、今まで涙など人に見せたことがなかった母が声を出して泣いた。

その頃の母は、車椅子を押して買い物へ行くと、好きな生ウニや鯛の刺身などを見つけては買ってくれとノーテンキなことを言っていた。私は人の気も知らないで、と腹立たしかった。しかし、涙を見た時、母は全て分かった上で、ノーテンキに振舞っていたのだと分かった。


それからもY氏は何度も来訪して絵を持って行き、売りさばいてくれた。おかげで、借金を全て返済した上、その後の1年間を楽に生活できた。

彼はその頃、腎不全で透析をしていた。会う機会はなくなったが、メールのやり取りは続けた。やがて、何となくメールは途絶えた。気にはなっていたが、この数年は音信不通だった。


Mk_1


誕生日に描き上げた小次郎の遺影を飼い主のKさんに納品した。
大きさはサムホール=22.7× 15.8cmと小さな絵だ。
Kさんはピアニストなので、背景はリズムを感じさせるように描いた。


Mt_1Kさんと小次郎の思い出話をしていると、ともちゃんが誕生祝いにケーキを焼いて持ってきてくれた。しっとりと焼き上がり、とても美味しかった。

彼女は23歳の可愛い人だ。そのように、若い女性に祝ってもらえるのは老人の特権かもしれない。

ケーキを焼いた鍋がとても懐かしかった。

昭和20年代、どの家庭にもこのタイプの鍋はあった。

名称は、単純にパン焼き鍋とかゼロ戦鍋と呼んでいた・・・下の写真、ネットから拝借した。

ゼロ戦を作っていた三菱が、飛行機の需要がなくなって、大量に余ったジュラルミンを材料にしてこの鍋を作って売り出し大ヒットした。それで、その通称になったようだ。

鍋の原型は下に炭火を置いてしゃぶしゃぶをする中華料理のホーコー鍋だ。

その後、南部鉄器で「タミさんのパン焼き器」として復元され、今も使っている人は多い。

終戦当時は米軍援助物資として家畜飼料のトウモロコシ粉や小麦フスマなどが配給された。代用食としてすいとんなどにして食べたが、大変に不味く、相当の空腹でも食べられる代物ではなかった。

それでゼロ戦鍋で、重曹を入れてパンに焼き上げ、なんとか食べられるように工夫した。鍋の真ん中の煙突によって熱効率が大変良いので、とても重宝された。

その頃母は、砂糖や干しぶどう、チョコレート、卵、ナッツなどの貴重な食材を、沖縄と密貿易していた知り合いの漁師から手に入れ、ゼロ戦鍋でクリスマスケーキを焼いてくれたことがあった。

初めて嗅いだバニラの香りは素晴らしく、生涯で食べた一番美味しいケーキだと思っている。しかし、今食べたら美味しいものではない。子供の鋭敏な嗅覚と味覚のせいで、とても美味しく感じたのだろう。


16日の誕生日は快晴だったが、夜に驟雨が幾度か過ぎた。
夜中、荒川土手に登ると、濡れた土手道に寒空が映り、ほのかに白く地平線まで続いていた。

60代は母の介護から始まり、多くの人と死別した。70代からは日に日に死者たちの世界に近づき、私が死ぬ番となる。だからか、夜の闇に仄白く見えた道は死出の道のように見えた。それはメキシコの死者の日のように、生と死が仲良くしている不思議な明るさを感じた。

母が70代辺りから底抜けに明るくなったのは、今の私と同じ気持ちだったのだろう。


荒川土手は空が広く、様々な雲と出会える。
その中で、気になった珍しい雲を以下に掲載する。


M_9


波型の雲。始めて見つけた。


M_6


山の方では雪が降っていた。
雪雲が流れてきたのかもしれない。


M_7


上と同じ日の雲。
なんとなく胸騒ぎする雲だった。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

« 60代最後の日に思うこと。「表現・言論の自由」の耳ざわりの良さが覆い隠す汚れた傲慢さ。2015年1月15日 | トップページ | 日本では難しい「ウソつきを見抜く方法」。知的なほどウソをつき、ウソは文化の一部。15年1月23日 »