気がつくと人生の大半を赤羽で過ごした。この分ではこの地で最期を迎えそうだ。15年3月6日
傍のテレビで22年前のTBSドラマ・野島伸司脚本「高校教師」の再々放送をやっていた。私がそれを初めて見たのは20年ほど前の再放送で、音声を聞きながらTVCMの動画を描いていた。CMの仕事は極めてギャラが良い。10日間で背景画を含めて400枚も描く厳しい仕事だったが、そのギャラで1年暮らせた。
制作期間、毎日ドラマを放映していた。
録画して何度も再生しながら10日間、殆ど寝ないで仕事をしていた。だから、仕事が終わる頃には、主要な台詞を殆ど覚えて空で言えた。BGMに使われた森田童子の曲も深く記憶に残り、今も時折iPotで聴いている。
ドラマの繭ちゃんを演じる桜井幸子がとても若くて可愛い。
出演時の彼女の実年齢は20歳だが17歳の女子高生を初々しく演じていた。彼女の親戚に出版人がいて、彼とは付き合いがあった。彼は20社ほどを傘下に置くほどに大成功したが、無謀な拡大路線に失敗し、去年倒産して今は行方不明だ。
「高校教師」の再々放送を見ながら、その頃、付き合った女性たちを走馬灯のように思い出した。劇団の女優さんに武蔵美や多摩美の女子大生たち。ドラマの頃はバブル真っ最中で私もその恩恵を受けていた。
ドラマに登場する流行の広い肩幅ジャケットは今見ると可笑しい。
今日のドラマで繭ちゃんが生物教師・羽村先生に電話してペンギンの話を聞くシーンがあった。それは緑の公衆電話で、今は殆ど使う人がいなくなった。
その頃にはすでに携帯電話が出ていたが、シヨルダー型や弁当箱みたいに大きなもので、庶民には手が出ない株屋・不動産屋愛用のアイテムだった。その頃、赤坂・青山辺りを歩くと、イタリー高級ブランドに身を包み、得意げに携帯をかけているバブル紳士を見かけた。
「あっ、10円玉に昭和50年とある。私の生まれた年だ」
繭ちゃんは羽村先生から貰った10円硬貨を切れかけた公衆電話に追加した。
昭和50年生まれなら今40歳。ドラマはすでに、遠い昔になってしまった。そして繭の父親、彫刻家二宮耕介役の峰岸徹は7年前に肺がんで65歳で死んだ。
今、奇しくも同じドラマを見ながら絵本に取り掛かっている。これから夏まで制作を続けるのは昔描いた本のリニューアルだ。それで未熟だった絵を描き直したかった長年の念願が叶う。
好天の荒川土手。
先日まで、絡まないコードの試作に熱中していた。イアホーンコードなど応用範囲が広く、これで金持ちになれると夢に浸っていた。しかし、その基本理論を海外文献で先行調査したところ、バーミンガム・アストン大の物理学者が全く同じ理論を数年前に発表していた。
夢は潰えたが、請求範囲を狭くするか、意匠登録なら権利は確保できる。早速、大手メーカーに売り込んだが、どんなに素晴らしい考案でも、社外アイデアは受け入れないのが社の方針だと拒絶された。
昔、特許に熱中した頃、考案を多くの企業に売り込んだ。忘れていたが、その頃も、大企業から同じように拒絶された。そのような保守的な企業姿勢が、今の日本企業の苦境を招いているのかもしれない。
日本企業は成功している案件なら買うが、世の中に出ていない案件を認めさせるのは、ほとんど不可能だ。だから、イアホーンなどに設置できるグッズとして、独自に制作して売るのがベストだと思っている。
先日の夜、新橋の姉の店へ行って、帰りは東京駅まで歩いた。
高速道路高架下のコリドー街のレストランは通路から厨房が見える。忙しく働いている料理人たちを眺めるのは楽しい。この5,6年、この一帯にセンスの良い手頃な店が増えた。トルコ料理の店には超美人の中東系の女性を伴った男性が入って行った。
洋食の店は日本人ばかりだが、和食の店には外国人が並んでいた。
そこから有楽町のガード下飲み屋街にはいるとガラリと雰囲気は変わり庶民的な活気があふれた。前を歩くバックパッキングのタイ人女性二人連れが、おっかなびっくり焼き鳥屋へ入って行った。
更に東京宝塚劇場から日比谷公園、お堀沿いの通りを歩き皇居前帝国劇場前から東京駅へ向かった。このコースを歩くのは20年ぶりで、その変貌ぶりに驚いた。
ライトアップされた明治生命館のギリシャ様式の円柱は見上げるように巨大で見応えがあった。日本経済の中枢丸の内のビル群は圧倒的な迫力があった。ビル群を抜け、現れた東京駅は小さく感じた。20年前の記憶ではもっと大きな印象だったが、その間に丸の内に超高層ビルが増えたからだろう。
夜の赤羽駅で下車すると都心より2,3度は低かった。
いつの間にか春になっていて、清涼な夜風に沈丁花が香った。
夜道を歩きながら、人生のほとんどを過ごしたこの赤羽の地を想った。
青年期から壮年期へは赤羽駅に近い赤羽台の自然林に囲まれた1軒屋で暮らした。職人仕事に向いた家で、夜中に金属を叩いて伸ばしていても近所からの苦情はなかった。その家で祖母と父を看取り、最後に絵描きに転向した。上記のCMの仕事をしたのもその家だった。その時代は良くも悪くも勢いがあった。
夕暮れの赤羽北の旧居。
その向こうに環八があり、今思うと住まいの空気は排気ガスで汚れていた。
赤羽台から1キロ北方の赤羽北の公団住宅に移り、老年期まで過ごして母を看取った。
そして生活に行き詰まり、去年の秋、更に1キロ北方の浮間の住まいに移転した。今の住まいは街中から遠い分空気は清浄で、麻痺していた嗅覚が蘇った。だから、たまに都心へ出ると排気ガスや人いきれでむせかえってしまう。
そのようなことを想いながら、1里の夜道を歩いて帰宅した。
この分では、この地で最期を迎えるかもしれない。
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