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2015年9月 1日 (火)

五輪エンブレム盗用騒ぎで顕になったアートのあり方。要は似ているかどうかではなく、人を魅了するかどうかだ。15年9月1日

連日、東京オリンピック関連の話題が続く。
新国立競技場は冷房なしに決まった。
7月の暑さは選手にも観客にも過酷で、熱中症に備え10億かけて医療設備の充実を図る。
この本末転倒の計画は不可解だ。
ザハ案に決まってから2年半、大会組織委員会は何をしていたのだろうか。
組織委員会が機能しなかったのは、森喜朗会長が有能な人材を排斥し、意のままになる無能な者たちを重要ポストにつけているから、との内部告発がある。

更に多摩美・佐野研二郎教授デザインのエンブレム使用中止。
組織委員会・武藤敏郎事務総長は、佐野氏案は突出して優れていて、次点以下は代わって採用するほどのクオリティはなかった、と話していた。

公募への応募資格は大きなデザイン賞を二つ以上取っていることだ。だとすれば、応募された104点のデザインはトップクラスの水準にあるはずだ。それらが佐野氏より遥かに劣っていると決めつける武藤事務総長の言葉に公募審査の不公正さを感じた。この発言を聞いた落選者たちは怒り心頭だろう。

そして、騒動の原因になったベルギー・デザイナーの劇場エンブレム。
こちらもまた、シンプルなデザインの宿命として、似たものが数多くあるだろう。この問題は日本でこそ大きな話題になっているが、欧米ではさほど知られていない。もし、欧米で話題になったら、ベルギー・デザイナーを訴える欧米デザイナーが出現するかもしれない。

もし、佐野氏デザインのエンブレムがわくわくするほど魅力的だったら、世間は佐野氏を擁護し、ベルギー・デザイナーを一蹴したはずだ。世間がコピーだと騒いだのは、多くが魅力のないデザインだと思っていたからだろう。

誰の作品にも似ていないデザインなどこの世に存在しない。デザインで重要なのは見る人を魅了するエネルギーがあるかどうかだ。

美術・音楽・文学の世界でも、誰もやったことがない、この世に存在しない作品が突然に生まれることは絶対にあり得ない。
全てのアート作品は、それ以前の誰かの作品や自然物の影響を受けて生まれたものだ。
若いアーティストたちを萎縮させないように、世間は皮相的な形状に幻惑されず、作品が持つ独自のエネルギーと魅力に注目してほしい。


シンプルなデザインほど似たものが多くある。
ベンツのエンブレムは日本古来の紋章、三菱に似ている。
仮に両者が争えば、圧倒的に日本側がオリジナルとして有利だ。

今回のエンブレムのような文字デザインは必ず他と似る宿命にある。
私は教科書体のフォントが好きだが、教科書体と明朝体は完全に似ていて素人には判別できない。もし、教科書体を今回のコピー騒動の基準に照らせば完全にコピー扱いにされる。しかし、教科書体を明朝体のコピーだと排斥する者はいない。それは教科書体が魅力のあるフォントだからだ。


戦前のドイツ生まれの世界的タイポグラファー・カリグラファーのヤン・チヒョルト(Jan Tschichold, 1902年4月2日 〜 1974年8月11日)の作品に佐野氏デザインの原案に酷似したものがあった。
デザインを学んだ者なら誰でも一度は目にしている巨匠だ。彼は、それまであった雑多な前衛文字を整理し究極まで洗練させた。

そのヤン・チヒョルト氏の回顧展は2013年11月に銀座のギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催された。ポスターは武蔵野美術大の白井敬尚教授デザインで、円の位置など佐野氏の原案とほとんど同じだった。この巨匠の回顧展はデザイン界では話題になっていたので、佐野氏も審査委員も知っていたはずだ。

不可解なのは、修正後のエンブレム右下に疑惑の元凶のグレーの三角を残したことだ。どうしてそうなったか、先日、組織委員会が時系列に説明していたが、優秀なデザイナーなら、そのような意味のない飾りは残さない。
その結果、修正案はベルギーの劇場エンブレムに似てしまい、一気に炎上してしまった。この一連の経緯を見ていると、何が何でも押し通す誤った決意を佐野氏と関係者たちに感じる。


使用中止の主因は他にある。
佐野案に決定後、海外企業のエンブレムに酷似しているものが複数あるとIOCから指摘された。それで急遽、大会組織委員会は決定案を佐野氏に大きく修正させた。通常の公募展なら、この時点で佐野氏案はアウトになっていた。

修正に関しても森喜朗会長が大きく関与しているとの内部告発がある。

この場合許されるのは、デザインの要素の大きさの比率などで、形と位置を変える修正は許されない。佐野氏の場合、原型を留めたのは中央の黒の長方形だけで三角と円は位置と形を変え、明らかに違反していた。

もし、佐野氏が自分の作品に誇りを持っていたら、修正は絶対に受け入れず、受賞を辞退したはずだ。佐野氏がそうしていたら、彼の立場は今も安泰だった。


私は特許と実用新案を数多く出願している。
その経験を今回に当てはめると、1秒でも早く出願したり世の中に発表したアイデアがあったら、後発のアイデアは絶対に認められない。それは科学的な発見も同じだ。
五輪エンブレムは賞金こそ100万と安いが、それによって生涯得られる利益は莫大だ。そのような大きな権利が精査されるのは当然かもしれない。


Mm


回顧展の公益財団法人DNP文化振興財団発行の図録表紙。
古書として入手可能だ。
ポスターも同様のデザイン。
縦棒はデザイン的に写真を入れてあるが、ヤンのデザインでは黒く塗りつぶしたもの。


他にも、佐野氏の仕事には安易な盗用が多すぎる。大金が支払われるデザインにネット上の画像をそのまま使う安直さは愕然とする。それが通用していたのは、それを問題にするクライアントが皆無だったからだろう。日本を代表するエンブレムがそのような模倣で成り立っているとしたら、日本製品全てが疑惑を受けかねない。


結局、大会組織委員会は9月1日にエンブレム使用中止を決定した。
今度は公正で有能な審査員をえらび、意味のない厳しい応募資格は廃して公募をやり直せば、素晴らしいエンブレムが選ばれるはずだ。

このような問題が二度と起きないためには、人工知能を使った図形検索機能の進化が必要だ。そのシステムが未完成の今は新エンブレムを、特許や実用新案のように一定期間公表して似ているものを広く探してもらう方法がある。

今、ニュージランドで国旗図案の一般公募が行われている。
大変に公平な公募システムで、エンブレム公募の参考になりそうだ。


私は貧乏絵描きだが、このようなストレスに晒されるデザイナーにならなくて本当に良かった。これからのエンブレムは、シンプルだが不規則な輪郭の図案が増えるだろう。公募を狙っている人は、そのあたりを念頭に置けば成功しそうだ。

インターネットがない時代なら今回の騒ぎは起きなかった。
佐野氏は若くして認められ、母校の教授になり、五輪エンブレムでデザイン界大物への栄達が確約されていた。それなのに禁じ手を安易に使い躓いてしまった。下積みの苦労がなかったので、脇が甘くなっていたのだろう。

ちなみに佐野氏は43歳の後厄だ。奢れるものは久からず、栄枯盛衰のドラマを目の当たりにした思いだった。

すでに、街に飾られた佐野案エンブレムの幻の五輪ポスターに希少価値が生まれている。お笑いでも、オリラジの髭の方が髭つながりで「佐野です」と顔真似したら大受けしそうだ。


昔、政府関連のポスターデザインとイラストを受注したことがあった。
その時、政府指定のマークが1ミリ小さいからと、2万枚刷り終えたポスターの廃棄を要求された。私はマーク外枠線の外側を計ったが、担当役人は枠線の内側を基準にしていて、そのことは知らされていなかった。

マークは70ミリほどあり、担当者の言う通り1ミリ大きくデザインしたとしても、見た目はほとんど変わらなかった。あまりにも理不尽な要求だったので、急遽、自民党の大物政治家にお願いして解決してもらった。

翌日、担当部署を尋ねると、担当役人たちは丁重に迎え入れた。
「何も大臣にお願いされなくても、これくらいの些細なことは問題にしませんでしたのに」
担当者の対応は、前日の高慢さと打って変わっていた。

そのように重箱の隅をつくような役人体質の政府機関がIOCからクレームのついた佐野氏にデザイン修正まで許して擁護したのは、彼と審査委員の間に不透明な繋がりがあったからだろう。私は公募展で幾つか賞を取っているが、決定後の修正は絶対に許されなかったし、修正できるとも思っていなかった。


ものづくりをしていると、必ず、オリジナルか否かの問題に突き当たる。
私は作品が他に似ていると言われるのが嫌なので、いつも最大限に気を使っている。

昔、建設省関連の野外彫刻を作った時、ニキ・ド・サンファルのコピーだとクレームをつけた女性画家がいた。
「私の彫刻がニキのコピーだと言うのは、腰掛けて微笑んでいる女性の絵は全てモナリザのコピーだと言うのと同じくらいの暴論です。私の彫刻とニキの共通点は太っているだけで、作風も、コンセプトも、質感も全て違います」
看過すると完成した彫刻が廃棄処分を受け、制作費を返却しなければならなくなるので反論した。


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上左、ニキ(1930年10月29日 〜2002年5月21日)作品。
上右、ボテロ(1939年4月19日 〜)作品。
下、私の雲をイメージした作品。
軽やかに空が透けて見えるように、ステンレス帯板の骨格にステンレスの網を溶接して制作した。
本体を支えている円柱はホトショップで消した。


私はニキよりボテロ作品に似ていると思っている。
ニキ作品は、それ以前のアフリカや南米あたりの民芸品などに影響を受けたものだ。だからと言って、ニキが誰かのコピーだとは思わない。巨匠ピカソでさえアフリカの土俗的な作品の影響を受け、ヨーロッパの印象派は日本の浮世絵の影響を受けている。

繰り返すが、美術・音楽・文学の世界で、誰もやったことがない、この世に存在しない作品が突然に生まれることは絶対にあり得ない。アートを目指す者は、優れた作品に影響されて似るのは当たり前だと開き直り、世間の讒言と戦ってほしい。闘うことで優れた作品は生まれる。
但し、創造の過程を省略し、汗を流さず、最初から模倣するのは論外だ。

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去年8月まで住んでいた北赤羽の公団住宅を訪ねた。
旧居の頃の隣人、Yさんから電話があったからだ。

彼女は高齢のお母さんの介護のため、今は四国の実家にいて、帰京すると連絡がある。

訪ねると実家庭に咲いていた草花と、昔ながらの竹軸に巻いた竹輪を土産にもらった。
清浄な田舎育ちの草花は生命力が強くて花持ちが良い。
早速、仏壇の母に飾った。


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千日紅と鶏頭。


旧居の環境はわずかな間にすっかり様変わりしていた。
私の旧居にはベトナム人が3,4人で入居していた。家賃は高いが、人数割りすると民間よりずっと安上がりで、内装も住み心地も良い。それで、アジア系外国人が次々と入居しているようだ。

彼らは困った事に規則を守らない。
深夜まで大騒ぎしたり、通路で大声で携帯をかけたりして、うるさくて住んでいられなくなったとYさんは嘆いていた。私が尋ねた時も、バングラディッシュあたりの若者がベランダで大声で携帯で話していた。

そんなことがあり、Yさんは近く引越しを考えていると話していた。知人達が次々といなくなり、この集合住宅は縁遠くなって行く。帰り道、建物を見上げながら、住み心地が良かった母が健在の頃を思い出した。


M_13


荒川河川敷は雲低く、肌寒い。


今年も、知人の訃報が続く。
6月には高校の同窓生のTが胆管癌で死んだ。
Tとは2年前の横浜での同窓会で会ったのが最後になった。その時、彼は癌治療の最中で、腹に抗がん剤注入用チューブが差し込んであると話していた。

彼は怪しげな民間療法をやっていた。
「俺は癌では死なない」
彼は強気に話していたが、私も他の同窓生たちも2,3年の命だろうと思っていた。

そのように70歳を過ぎてから、死が一段と身近になった。
遺作になっても良いように、今は真剣に絵を描いている。
それで、ブログは休みがちになった。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

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