« オリンピック会場に沖縄での機動隊員の「土人」発言など、報道が無視しても真実は見えてくる。16年10月21日 | トップページ | ディズニーランドのカリブの海賊で感じた死者たちからのメッセージ。16年11月1日 »

2016年10月26日 (水)

今、アドラー心理学を使った「ほめない」「叱らない」子育て論が流行っている。・16年10月26日

精神的ダメージの原因を過去の体験に求めるのが一般的な考え方だ。対してアドラーは、人は精神的ダメージの原因を過去の体験の中から好都合なものを選んで当てはめる、と考えた。
全ての過去はこれからの人生に影響しない。いかなる過去も失敗の原因ではない。人はトラウマで苦しむのではなく、体験の中からトラウマとして説明しやすいものを選んで苦しむ。アドラーの逆転の発想は面白くて斬新だった。
---アドラーは100年前の心理学者で日本では馴染みがなかったが、フロイト、ユングにならぶ心理学三巨頭の一人だ---

例えば喫茶店でウエイトレスにコーヒーをこぼされた客が大声で怒るのは、優越コンプレックスを満足させるためにチャンスがあれば大声を出したいと、日頃から思っていたからだ。
大声を出した客は脅すことで優位に立ち、弁償の利益を得ようとする。利益はどんな形でも良く、ウエイトレスが自分好みの美人だったら、仲良くなりたい下心で「スボンが汚れたくらい平気です。気にしないでください」と寛大な態度をとったりする。そのように人は利益を得るために過去を適当に選び、態度をコロコロと変える。

トラウマが原因とされる精神疾患でも、患者は今の病態が好きで、それを正当化するために適当な過去をトラウマとして選び主張する。だから精神科医は患者の訴えに幻惑されずに、患者がなぜその病態に逃げ込んでいるのか本当の原因を解明しようとする。

不登校問題がそうだ。学校や親は原因を探るのに本人や家庭へのアンケートに頼り、いじめとか貧困とか類型的な原因に持って行こうとする。それが正解の場合もあるが、実際はそれらを無くしても解決しないことが多い。学校へ行きたくない本人の気持ちを糸口にすれば、子供の精神疾患とか、コンプレックスとか、表面に現れない原因に辿り着くことがある。


アドラーの考えでは、本当に優れている人は背伸びして自分を大きく見せようとしない。しかし、無能で優越コンプレックスに支配されている上司は人前で部下を怒鳴って貶め、自分が相対的に優れているように振るまい利益を得ようとする。

不幸自慢をする者は劣等コンプレックスではなく優越コンプレックスに支配されている。そのような者に「分かる分かる」と言おうものなら「自分の不幸など、お前に分かるはずがない」と怒り出す。奇妙なことだが、自分はお前たちが理解できない不幸を体験している上位の者だとの優越コンプレックスが根底にある。

いじめや差別については「いじめたり差別したするのは人間として恥ずかしいことだ」などと正論で諭しても解決しない。いじめをする者の優れた能力を探し出して褒め、自信を持たせることで、いじめを止める。しかし、実際は取り得のない者がいじめをすることが多く、解決は難しい。


以上のように、ほとんどの悩みは人間関係から生まれる。
アドラーは大人も子供も皆平等だと考えた。誰もが平等と評価されている社会では悩みは生まれにくい。アドー心理学を基にした子育て論は、平等を基本にして生まれた。

アドラーによると、褒めて育てられた子供は誰かが見ていないと善いことをしなくなる。例えば、床にゴミが落ちているのを見つけた時、褒められて育った子はまず周りを見渡して、誰も見ていなかったらゴミを拾わない。

それは私も実感している。子供の頃、教室などにゴミが落ちていると、誰も見ていないと片付ける気になれなかった。しかし、その後はアドラーと違う。ゴミをそのままにしてその場を去ると気まずさが残り、気分が晴れなかった。そんなことを繰り返している内に悩むのが面倒になって、ゴミを見つけたらさっさと片付けるようになった。当然だが、悩まずにゴミを放置する人もいるが、その多くは、しつけ方の問題ではなく、環境や宗教観などによるものだ。例えば、私を含め日本人の多くは、善いことをすれば善いことに恵まれる、と考える。それが誰が見ていなくても善行ができる源泉だと思う。

アドラー的子育て論では、叱られて育った子は、萎縮して人目ばかり気にするようになると考える。確かにそのような一面がある。しかし、私を含め昔の子供たちは叱られ慣れていて、社会で理不尽に怒鳴られてもダメージを残さず普通に成長できた。
対して、理想的な家庭で育った子供は、外へ出て理不尽に怒鳴られると大きなダメージを受ける。現実社会はアドラー的子育て論とは逆の世界で、叱られない子供の方がひ弱に育つことが多い。


今日、薬屋で買い物をした時、通路に落ちていた商品を拾ってそっと棚に戻していた若い女性がいた。それは日本では普通の光景だ。日本人の多くはは交差点では誰もいなくても交通信号を守る。電車は整列して待ち、割り込みはしない。それらは日本社会で培われたものだ。

今日本観光が外国人に人気だ。風光明媚とか古い文化財などが目的ではなく、日本人の穏やかで真面目な気質の魅力も大きい。日本で長く暮らした中国人の多くは帰国してからも、日本の良い気風を守ろうとする。それは日本で心地よい社会を経験したからだ。褒められようと、叱られようと、ほとんどの日本人は大人になるまでに、日本の素晴らしい気風を身につける。

古典落語に次のようなシーンがある。
・・・与太郎の足元に熊さんが大切にしていた菊の植木鉢が倒れている。
与太郎は植木鉢を眺めて腕組みをしている。
通りかかったご隠居。
「お前が倒したのか」
与太郎は否定。
「それなら、腕組みなんかしていないで、さっさと起こしてやれよ」
すると与太郎。
「熊さんが帰ってきたら、目の前で戻してやろうて考えてんだ、そしたらお礼に饅頭をくれるかもしれないぞ」
ご隠居、「しょうがねぇやつだ・・・」

もしご隠居がアドラー風に
「よく考えてごらん。与太郎さんが植木鉢を起こしてあげたら、後で熊さんは大喜びしますよ。そして、与太郎さんは、とても爽やかで誇らしい気持ちになりますよ」と答えたとしたら、それはそれで可笑しいが、馬鹿馬鹿しさや勘違いの楽しさはなくなる。

アドラー心理学を皮相的に理解して、しゃかりきにアドラー風子育てをやっていたら世の中はつまらなくなる。日本社会では、誰かの視線を意識して良いことをする小ずるい子供でも、やがて人目がなくても良いことをする立派な日本人に育つ。


以下にアドラー心理学を使った「ほめない」「叱らない」子育て論にあった例を記す。

アドラー心理学では、ほめることは「上位の者が下位の者に評価を与えること」で、叱ることは「上位のものが下位のものを評価しないこと」。子供を罰したり、説教したりするのは感情表現で「他の人を自分の思ったように動かすためのもの」と考える。
そのように、対等な子供と大人の関係を否定した躾けは子供の心を傷つけて失敗する。
ではどうすれば良いか。
叱りたい時は、何に対して怒っているのかを冷静に子供に伝える。
子供がお手伝いをしてくれたり、テストでいい点をとったりした時、ほめる代わりに私も嬉しいと伝えて子供と一緒に喜ぶ。
例えば、
子供「100点取ったよ」
親「そっか、100点取ったんだ。君はそれでどういう気持ちかな」
子供「うれしいよ」
親「そっか、あなたが嬉しいと私も嬉しいよ」

そのように子供を尊重して共感する態度は相手を勇気づけ、くじけない力を身につけることに繋がる。親は、子供の失敗経験を成長のチャンスと捉え「つまずいてもいい、失敗していい」と子供に接することだ。その結果、子供は困った経験をすると、そこから学び失敗を繰り返さなくなる。

例えば、朝起きるのが苦手な子供の場合、「起こすのか」「起こさないのか」を子供に決めてもらう。
「起こさなくてもいい」と答えたら放置する。
その結果、子供は朝起きられずに遅刻してしまう。
その時、落ち込んでいる子供を怒らずに「明日は起こそうか」と聞く。
「起こしてほしい」と答えたら手を貸してあげる。

困ったことが起きれば、子供は自分で考え対処しようと学んで行く。
子供自身が自分でできることを見つけた時は、それを伸ばすように手助けする。
ただし、決して他人と比較してはならない。比較するのはその子の過去と現在に限定し、以前より成長していたらほめてあげる。

アドラー心理学を使った子育て論は、お行儀の良さに溢れている。しかし、これでは社会の荒波に耐える強さが育たない。さらに、瞬発的に怒鳴られ褒められにぎやかに子供時代を過ごした私にはまどろこしい。子育ては、愛情さえあれば大雑把でいい加減でもいいと思っている。子供にとって愛情は一番大切なもので、親に愛情があるかないか一瞬で見極め、叱る言葉やほめ言葉の真意を理解する。愛情さえあれば、子供は叱っても萎縮しないし、褒めても慢心しない。

昔の普通の子供は家庭でも学校でも、怒鳴られれ、ぶん殴られて育った。それでも、いい大人に育ったのは日本社会が良い大人を育てるシステムを備えているからだ。関西・三陸での大震災で見せた日本人の秩序や助け合いは海外から賞賛された。日本社会は個人が子育てを失敗しても最低限の良識を育てるシステムを備えているようだ。


全ての子供が立派に育つ必要はない。アドラー自身が理想的な子供時代を送ったわけではない。彼は1870年にウィーン近郊のユダヤ人家庭の7人きょうだいの第二子として生まれた。本人は陽気な性格だったが、子供の頃はくる病を患い体が不自由だった=くる病はやがて完治した。母親は兄を可愛がり、弟が生まれるとそちらを可愛がった。しかし後年、母親にしっかりした愛情があったことをアドラー自身が認めている。

アドラーは悩み多い子供時代を過ごしたが、長じてユングとフロイトに並ぶ大心理学者になった。歴史上の学者、芸術家、思想家のほとんどは、劣等感や逆境をバネにして成長している。親に理想的に育てられて、社会に適応した立派な人間に成長することは素晴らしいが、それでは親が望むような大人物にはなれない。要は、叱ったり褒めたりする親の心の中に、しっかりした愛情があれば良いことだ。それさえあれば子供は親や大人を信頼し、良い大人に育つ。

補足すると、アートの世界では美術、音楽、文学では、作品のほめ方と叱り方はかなり違う。美術の世界では欠点は個性に属していて指摘しない。ただ素晴らしい点だけを褒める。音楽と文学は欠点を強く指摘しがちだ。
スポーツの世界では良いプレーをしたら褒める。子育て論のように、それで選手が慢心することはない。褒めることは、1+1を2と答えたものを正解だと褒めることと同じだ。アドラー子育て論が流行りだが、極端にぶれることを危惧している。


S_1


荒川土手、夕暮れ風景。
寒くなって虫の声は聞こえなくなった。


M_951


一夜明けて好天。気温25度。今年最後の夏日となった。


Mo_3


三時草の花と実。
午後、三時すぎると咲いている。
可憐で好きな草花だ。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

|

« オリンピック会場に沖縄での機動隊員の「土人」発言など、報道が無視しても真実は見えてくる。16年10月21日 | トップページ | ディズニーランドのカリブの海賊で感じた死者たちからのメッセージ。16年11月1日 »