嫌なことだけでなく、良いことでも早く忘れたがいい。無知であることで自由に生きられる。17年4月22日
嫌なことは早く忘れたいと誰でも思っている。
しかし荘子は「良いことであっても早く忘れたが良い」と言っている。
30年ほど昔のことだ。帰宅した母が銀行での出来事を話した。
母が順番が来るのを待っていると、知らない老人が話しかけて来た。
「この小説は息子が書きました。芥川賞の候補にもなっています」
老人は手にした文芸誌を開いて母に作品を示した。
「素晴らしいですね。本当によございました」
母が心から褒めると、老人は嬉しそうに銀行を出て行った。
「あの方の気持ちは親としてとてもよく分かる。
正喜にそんな良いことが起きたら、私だって東京中に自慢して回るよ」
母はそんなことを話した。
私は「恥ずかしいから、それだけはよしてくれ」と応えた。
老人は、初めは近所親戚知人と本を贈り息子の自慢をしていたのだろう。
活字になった作品を見ればみんなは褒めそやすが、世間はすぐに飽きる。
そのうち誰も相手にしてくれなくなって、知らない人にまで本を見せて回っていたのだろう。
母の話を聞いた後、老人の親心が切なくなった。
良い出来事でも執着すると煩悩に変わり苦しむ。
恋愛も同じだ。
情愛の快楽に執着すると、嫉妬したり邪推したりして苦しむことになる。
「心は固(まこと)に死灰のごとくならしむべし」荘子
良いことも悪いこともさっさと燃やし尽くして灰にしてしまうのが良い。
若い頃はイベントからイベントへと生きていた。
その最たるものが好きな女性とのデートだ。
デートを待つ日々は、そのことで頭がいっぱいで、他のことは何も考えられなかった。
老いた今は違う。
楽しいイベントは時折あるが、それを待つ日々も大切におろそかにしない。
老いると、明日の保証がないからだ。
突然に体調を崩し、大切な日に寝込むことだってある。
最悪、突然死することもある。
だから、点と点の生き方ではなく、毎日、今が大切と思って必死に生きている。
荒川土手のタンポポの群落。
穂綿の群れが童話の世界のように可愛い。
雨が降りそうな湿気のために穂綿がとどまり、この風景が生まれた。
明日は好天なので、ほとんどの種は風に飛ばされて行くだろう。
先日、Eテレでモーガン・フリーマンの時空を超えて「宇宙は永遠に続くか」を見た。
番組で分かったのは、大宇宙のことを人は何も分かっていないことだ。
宇宙論を聞きながら、私の仕事場と同じ6畳間に引きこもっている青年がいたとしたら、どのように宇宙を考えるのか想像してみた。
青年にとっての宇宙の広さは6畳で、その寿命は後30〜50年ほどで終焉する。
「井の中の蛙 大海を知らず」の諺がある。
狭いところに閉じこもらず、外の広い世界も知らなくてはならない、との警告だ。
しかし、閉じこりの青年は「大海」を知らなくても生きて行ける。
むしろ、無知であることで自由に生きられるかもしれない。
大海を知っていると自認している人でも、太陽系の一点である地球のごく薄い表面だけをほんの僅かだけ知っているだけだ。
その太陽系ですら、銀河系の極小の一点に過ぎない。
さらにとてつもなく広大な宇宙が存在して、その宇宙に人が対峙すると限りなく0に近づく。
その宇宙も、多元宇宙論では大宇宙に無限にある宇宙の微細な一点に過ぎない。
我々が属している宇宙の存在期間も、大宇宙史の中では痕跡すら残らない刹那のことだ。
大宇宙を基準にすると、人類は存在していないのと同じだ。
しかし、自分を基点に大宇宙を見ると事態は逆転する。
引きこもりの青年にとっての宇宙は限りなく縮小し、手が届く範囲となる。
彼が認識できない外の世界は存在しないと独善的に考えても何の不都合もない。
引きこもり青年にとって理論物理学で考える大宇宙などどうでもいいことだ。
しかし、北朝鮮から核ミサイルが飛んで来て、引きこもりの青年が危険にさらされる可能性はある。青年を扶養している親が年老いて破産し、債権者から部屋を追い出される可能性もある。部屋へこもり続けたために体調を壊し、救急車を呼ぶ羽目に陥ることもある。それでも、自分に起きるすべてを受け入れる覚悟があるなら外の世界を知る必要はない。
なぜなら、人類自体が、極めて小さな地球に引きこもっている存在だからだ。宇宙から人を見たら、万物斉同、内向きでも外向きでも大差はない。
それが老荘思想の根幹をなしている考えだ。
人は世界を考えたり、明日のことを先回りして考ることが大切だと考える。そのように知力を使って人は豊かになり文明を築いて来た。だから、知力を否定する老荘思想は人類史に相反するものだ。
学を断てば憂いなし 老子
近年、欧米人もやっと知力によって人が不幸になってしまった現実を認め始めた。
その一人、世界的ベストセラー「サピエンス全史」の著者イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、狩猟採取から農耕に変わった時に所得格差が始まり、一般人の生活水準が狩猟採取時代を凌ぐには幾千年も要したと記している。
「サピエンス全史」に次のようにある。
「2014年の経済のパイは1500年のものよりはるかに大きいが、その分配はあまりに不公平で、アフリカの農民やインドネシアの労働者が1日身を粉にして働いても、手にする食料は500年前の祖先よりも少ない。人類とグローバル経済は発展し続けるだろうが、さらに多くの人々が飢えと貧困に喘ぎながら生きていくことになるかもしれない」
とは言え、日本などの先進国は知力によって長生きと豊かさを享受している。
それは知力の功績だが、それで人類が幸福になったかどうかは疑問だ。
2000年以上昔から、老荘思想では知識が不幸の元凶だと言って来た。
老子の言う理想社会は、人々が無知で、食べ物が十分にあって、みんな健康である社会だ。
愚民政治だと非難される問題発言で、知識全能の社会にどっぷり浸かって生きて来た我々には過激すぎる言葉だ。しかし、知識が支配者に奉仕するために生まれ、戦争や格差社会を生んだことは厳然たる事実だ。
個人と大宇宙の関係を考えることは、神の存在を考えることだ。
宇宙の真実は永遠に分からない以上、神や死後の世界や死者の魂を信じることに不都合はない。それが人生を心地よくさせるなら、積極的に神や死後の世界や死者の魂を信じたほうが良いと思っている。
宇宙についても同じだ。
理論物理学の宇宙観より、スターウオーズなどのSF世界の方が絶対に楽しい。
学者から見れば空想科学や宗教は無知そのものだが、無知の世界は自由奔放で楽しい。
もうすぐ5月1日の祖母の命日だ。
43年前、快晴の爽やかな朝に祖母は在宅で母と私に看取られて死んだ。
その夜は久しぶりに大家族が揃って、とても賑やかな通夜になった。
快晴の翌日が葬儀で、ツツジが満開だった戸田の斎場で荼毘に付した。
翌々日の3日も爽やかな快晴だった。
祖母の遺骨は紅型の風呂敷に包まれ、母と兄と共に九州の菩提寺へ旅立った。
満開のツツジと木漏れ日の美しさが鮮明に記憶に残っている。
その翌年の秋、中学教師をしていた兄は学校で急死し、見送った兄の後ろ姿が見納めになった。
兄の葬儀は学校葬として盛大に執り行われた。
都城郊外の寂しい火葬場での荼毘の後、大柄な兄の遺骨は多過ぎて骨壷に入りきらなかった。それを全部納めてと泣き叫ぶ兄嫁の姿が目に焼き付いている。
兄は昔風の2枚目で、若い頃のあだ名は「光の君」だった。
と言っても兄は極めて真面目で、私にはいつも読書していた姿しか記憶にない。
兄には重症の紫斑病があり、35歳まで生きられないと医師に言われていた。兄は自分の運命を自覚していて、九大の理系に進学したが、いつの間にか好きな仏文に専攻を変え酒とマジャーンに浸り、臓器から大出血を起こす紫斑病の発作を繰り返して中退した。
日南市大堂津での静養中、再度大発作を起こしたが地元の屈強な漁師たちの大量輸血を受けて奇跡的に命を取り留めた。さらに健康な血液のおかげで体質が変わり、兄の紫斑病は劇的に寛解してしまった。
兄はその後結婚し、生活のために通信教育で教師資格を取って都城の中学教師なった。しかし大好きな酒はやめず、組合運動にも熱中して過労から学校で脳出血を起こし急逝した。死因は紫斑病とは無関係だ。もし、ビールジョッキでウイスキーを飲むような大酒を控えていたら今は84歳で、生きていても不思議はない。
先日の桜。東京医療センター下の公園。
この光景はすでに終わり、今は緑一色に変わった。
花の夢 覚めて青葉の風寒し
この自作の句を毎日噛み締めている。
年々、桜の美しさが身に染み入るようになった。
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