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2017年5月22日 (月)

日テレ「スッキリ」にちょっと出た私「破り捨てられたカード」の真相。 17年5月22日

夏のような日々が続くが、5月の暑さは心地よい。
耳元をさわやかな風が過ぎる。
いつもの公園で休むと、シデノキの梢が優しく青空を撫でていた。
青空が美しいのは、沢山の人の思いを受けとめてきたからかもしれない。
公園脇の道を、皆暑そうにうつむいて歩いている。立ち止まって空を見上げれば心が晴れるのに、誰も空を見上げようとしない。この素晴らしい5月の空と新緑を知らずに過ごすのは惜しいことだ。


先日、赤羽駅前で散歩中の私は日テレのワイドショー「スッキリ」のインタビューを受けた。今朝、二度寝から目覚めて「もしかして」とテレビをつけると、唐突に私が映し出された。テレビで自分の姿や声を聞くのはとても嫌な氣分だ。
昔、FM東京の音楽番組で自然について語ったことがあった。後日送られてきたそのテープは机の引き出しの奥にしまい込まれ、15年間恥ずかしくて聞くことができなかった。業界人ならともかく、普通の者には客観的な自分を見せつけられるのは身をよじるほどに恥ずかしいものだ。

いつ放映かは聞いていなかったし、期待はまったくしていなかった。その通りに放映された私は見るに耐えなかった。重要エピソードはザックリとカットされて品なく変更され、紹介作品の色味もひどかった。「放映される」と知らせたのは親しい数人のみで、大ぴらに知らせなくて本当に良かったと思った。

昔、NHKで取り上げられた時はもっと長く真摯で丁寧だった。しかし、民放ワイドショーではこれが限界だろう。


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番組のタイトルは合コン参加だったが、そんなものに私は一度も出席したことはない。
描かれた私はまるで別人で、本当の私はもっと品格がある。
上画像で着ているネルのシャツはバブルの頃に買った。
今の貧乏絵かきの金銭感覚では高かったが色あせも傷みもない。高い品は結局は安い買い物になる。

インタビューされた時間は15分ほどだ。
その時答えた真相は以下のようなものだった。


  "破り捨てられたカード"

28年前、まだバブルの余韻が濃厚に残っていた頃のことだ。
その年の晩秋、親しい画廊主に連れられて3人展のオープニングパーティへ出かけた。
3人はモダンアートでは海外でも広く認められていた若手作家たちだ。
銀座のモノトーンで統一された広い会場にはテーブルがいくつも設えられ、高級ワインや料理が並んでいた。

当時、私は44歳だった。
前年の43歳の時、私は友人たちが必死で引き止めるのも聞かず、高給の仕事を捨てて、
「絵描きになって野垂れ死する」と宣言して絵描きに転向した。

絵描きとしての実績は何もなかった。
人と違っていたのは、10代後半に受験勉強を一切せずに、毎日、10時間以上絵を描いていたことだ。だから、25年以上の空白があったにもかかわらず、プロとしての技量は完成していた。

25年の空白期間の仕事は伝統工芸の彫金職人と雇われ会社役員だった。
職人仕事はとても恵まれていた時代で、月に10日働けば一般の3倍は稼げた。
会社役員の頃はバブル真っ只中で、さらに高給で生涯最高の自堕落な生活を満喫できた。


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番組で紹介された写真は44歳とされていたがデジカメによる自撮りなので、パソコンを始めた1999年・54歳だと特定できる。幸い若く写っていたので44歳として使ってもらった。
背景の作品は「夏の終わりに」。絵描きとして認められるきっかけになった作品。
思い入れ深く、売らずに今も手元にある。


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こちらが実際の44歳の私。
場所は青山で開催した最初の個展会場。
この個展で前述の画廊主と知り合った。
「スッキリ」の再現イラストの私はこの画像を参考に描かれている。
この縞のTシャツは今も着ている。しかし、28年も着続けると首回りが伸びきってしまう。だから着る時は後ろ前にして上着を羽織りごまかしている。

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職人時代の37年前に作ったバック。
目立とうと、そのパーティーに肩から提げて行った。

バックは調理用のステンレスボールを2個利用してサバイバル用に作った。
当時の私は関東大地震が明日にでも起きると固く信じていた。
地震が起きたらバックを開き、ヘルメットとして頭に被り、ビル窓が砕けて舞い落ちるガラス片から頭部を守ろうと、本気で考えていた。

バックの中には、外出用の小物とともに、脱出用のロープや防煙簡易マスクなどが収納されていた。長さ1メートルの肩ひもは厚いビニール菅に耐荷重700キロのステンレスワイヤーを封入したものだ。開いたバックを加えると1,5メートルの長さになり、非常時にはそれを利用して階下へ脱出することができた。


パーティー会場の人たちは、今まで付き合った経験のないアート系やマスコミ関係が多く、私は田舎出の娘のように緊張していた。
手近なテーブルを選び、私は好物の生ハムをほうばりシャンパンやワインをがぶ飲みしていた。

「面白いバックですね。何が入っているのですか」
隣に立っていた若い女性が話しかけてきた。
私は複雑な機構のロックをガチャガチャと外して頭にかぶって機能を説明した。
すると座は一気に盛り上がり、人だかりができた

私は調子に乗って周りにお愛想を振りまきながら、
素早く「売れない絵描きです」とバックに入れてあった作品カード5枚を彼女に手渡した。彼女からは私立美術大助手と記された名刺をもらった。

彼女はしげしげと作品カードを眺めていた。
「"夏の終わりに"はビエンナーレで賞をとりました。
ライオンとキリンは先日売れたばかりです」
私は嬉しそうに自分の話をした。
本当の当時の自分は貧しく、時には電車賃節約のため、赤羽から歩いて池袋まで画材を買いに行ったほどだ。
自慢を聞いていた彼女の顔が「何だ売れてる絵描きじゃない」と曇ったはずだが、当時の私はまったく気付かなかった。私は図に乗って、この1年はあちこちの大小の公募展に片っ端から応募して賞金総額が200万近くになった、とかなり事実を盛って自慢した。

本当の私は自慢好きではない。
むしろ謙虚なくらいだ。
自慢相手がいつも飯を奢ってくれる裕福な友人たちなら、
「そんなに儲かっているなら飯代はお前が出せ」と容赦なく突っ込んでくれる。
だから、いつも安心して自慢話ができた。
しかし、彼女は生真面目に私の怪しい話を信じていた。


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「このライオンの絵の空の緑、綺麗ですね」
彼女はやっとカードの批評を始めた。
「色が綺麗なのは印刷屋の力で、私の技量ではありません」
私は謙虚に答えた。
「この木はカリフラワーみたい。
カリフラワーって動物の内蔵みたいで、描いていて気持ちが悪くなりません。
それにこのライオンの足、解剖学的に変ですよ
あなたの立体は評価するけど、平面はちょっと素人ね」
彼女は厭な作り笑いをしながら、両手でライオンのポーズをして見せた。

言葉の節々にトゲを感じた。
だがそのくらいの言葉で傷つくようでは絵描きにはなれない。
「わあっ鋭い。さすが美大助手ですね」
彼女を褒めて、何とか和ませようとした。

何を話しても彼女の笑顔は凍ったままだった。
私は気まずくなってその場を離れた。
バックのおかげで、会場のあちこちで声をかけられ、綺麗な人たちから10枚近く名刺を手に入れた。
その内の何人かとは、翌年、ディズニーランドへ行った。

パーティーは予定時間を超えて続いた。
私は居残って、仲良くなった女性スタッフの掃除を手伝った。
その時、初めに着いたテーブルの下を覗くと、私があげたカードが5枚とも破ったり折ったりして捨ててあった。私はスタッフに見つからないように急いで捨てられたカードをポケットにしまった。

帰りの電車は憂鬱だった。
今も、窓ガラスに映った暗い顔の記憶が残っているほどだ。

パーティーの1ケ月後に彼女へ年賀状を出した。
松の内が過ぎた頃、普通切手が貼られたそけっけない年賀状が送られてきた。
その後、幾度か作品展案内を出したが彼女は来なかった。
年賀状は数年後には立ち消えになり繋がりは完全に切れた。

今も彼女を覚えているのは、プライドを傷つけてしまったとの反省があるからだ。
それ以来、女性にカードを渡す時は
「帰りに捨てたくなったら、こっそり駅のゴミ箱に捨ててね」と付け加えることにしている。


そのようなことがあってもめげずに、招待されると嬉々としてあちこちのパーティーに出かけた。そして、いつものように余計なことを喋りすぎて、帰りの電車で憂鬱になった。

この性癖は72歳になった今も変わらない。
先週土曜日も銀座のオープニングパーティーへ出かけて、シャンパンを飲み調子に乗り過ぎて「よしなさい」と売れっ子画家の美しいMさんにたしなめられてしまった。
「飲んで喋らなければ良い人なのにね」
彼女にはいつも注意されている。
しかし、この性癖は死ぬまで治りそうにない。


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番組で紹介された現在の私。
描いている作品は先日納品した「T氏像」F8号、画材・リキテックスソフトタイプ。


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徹夜で描いて九州へ持参した。
そのエピソードは次回記す。


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Goof

Mas

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