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2017年6月21日 (水)

日南市・大堂津紀行 17年6月21日

 五月十一日、朝まで郷里の大堂津へ持って行くT氏肖像画に手を入れていた。
二時間ほど眠り、十時に家を出て、お昼前に羽田空港着。
久しぶりの羽田は以前と何もかも変化していた。殊にセキュリティの厳しさは著しい。
鉛筆削り用の小さなアーミーナイフを手荷物に入れておいたら機内持ち込み不可で再手続きになった。

 十三時定刻に無事離陸。寝不足だったが地上風景が眺めたくて眠る気分にならない。
十五時に宮崎空港着。予定していた日南行きの列車は一時間待ち。案内所で聞くと路線バスが五分後に出発する。急遽バスに変更して、その旨、大堂津の郡司氏に携帯で伝えた。彼は地元の古刹円心寺の住職をしている。


 私は宮崎小学校六年・宮崎中学・大宮高校と宮崎市で七年間を過ごした。
当時の宮崎空港は芋畑に囲まれ、そこかしこに零戦を米軍攻撃機から守るための頑丈な掩体壕が残っていた。空港には国内唯一の航空大学が併設されていた。
旅客機はプロペラのフレンドシップ機が日に数度離着陸するだけののんびりした空港だ。離着陸の合間に、陽炎揺らぐ滑走路を友達と自転車競争したことがあったが、咎められなかったほどだった。


 当時の青島街道はほとんど車は走っていず、左右に田んぼや湿原が広がっていた。
道路に並行して宮崎軽便鉄道があった。数両の客車を引く小さな機関車のスピードは遅く、昔、ベルリン五輪の日本代表の村社講平マラソン選手と競争して負けたとの逸話が残っているほどだ。その牧歌的な光景は完全に消え、バスの車窓には気が重くなるほど雑然とした街並みが続いた。

堀切峠を過ぎて内海を過ぎると日南海岸ロードパークに入る。
昔の宮崎軽便鉄道は内海が終点だった。今その路線は日南市・北郷駅まで延長され、終点を鹿児島県志布志とする日南線に変わった。
国鉄時代、最初に敷設されたのは都城から志布志までの志布志線だった。その後、志布志線は日南の北郷まで延長された。今、それは逆転し、志布志・都城間は廃線となった。

ロードパークに入るとすぐに日南市に入る。観光開発がなされていない美しい入江が次々と現れ、今回の旅ではじめて旅情を覚えた。昔は旧飫肥藩の日南市と宮崎市は全く違う文化圏だった。両市が険しい海岸線と山地で隔たれていたからだ。
記憶では山地をうねうねと縦断するバス路線を山仮屋線と呼んでいた。海岸を行くのが主要路線だが、中新世後期の脆い水成岩質で、落石によりしばしば閉鎖された。雨の日に母に連れられて宮崎へ出かけた時、小型トラックほどの巨石が道を塞いでいたことがあった。ボンネットバスは小回りがきく。バスは巧みに岩を避けて前進した。峠を下って到着した青島と「こどもの国公園」は田舎者の私には目がさめるほど都会的な風景に見えた。


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今は海岸線もトクソ山系の険しい山道も近代的に改修され、南北の二つの文化圏は一時間足らずで結ばれている。その結果、日南(飫肥)文化圏は宮崎市に蚕食され、言葉も考え方も昔と微妙に変化した。

 私は小学六年に宮崎市へ引っ越した。私は宮崎市の言葉や文化が嫌で頑なに拒否した。
その結果、宮崎弁を飛び越え、標準語を身につけてしまった。
東京には宮崎を売りにした居酒屋が多くある。宮崎出身の友人たちに誘われて行ったことがあるが、店主が馴れ馴れしく宮崎弁で話しかけて来るのが嫌で、二度と行かない。

 久留米出身の母と博多出身の父がなぜ辺境の大堂津へ移り住んだかよく聞かれる。私が生まれたのは昭和二十年一月、疎開先の日田市豆田の産婦人科医院だ。敗戦後、母は大堂津の親しい知人たちから「こちらは米だけはないけど、魚も野菜もたっぷりある」と熱心に誘われた。それで我が家は、私の誕生前に大堂津へ引っ越して来た。

小学五年までの多感な少年時代を大堂津で過ごした。小学校では何を描いても五点満点の評価を受けた。そのおかげで、絵に対する絶対的な自信がついた。
小学校二年の冬だったか、円を二個描いて「お供え餅」だと提出すると、先生は「大変良くできました」と満点をくれた。その時は子供心に、少しやりすぎだと思ったほどだ。もしそれが、宮崎市などの都会だったら、級友たちからえこひいきだと非難されたはずだ。しかし、誰もおおらかで、嫌な思いをしたことは一度もなかった。

後年、教育の専門家にその話をしたことがある。
「それは理想教育だ。才能を育てるのに絶対的な効果があると分かっているが、義務教育で特定の子供を特別扱いすることは難しい」
彼はそんなことを話した。

小学六年から暮らした宮崎は自分の陰影を形成した土地だ。私は現実を否定するように、絵や映画や散歩に熱中した。人格や才能は陰陽バランスよくあって、巧く形成されるもののようだ。


 路線バスが鵜戸神宮に近づくと、小学生の女子二人が乗車してきた。
「よろしくお願いします」
大きな声で運転手に声をかけたのがとても可愛かった。
殊にその一人は東京ならスカウトが声をかけそうな程にスタイルも良かった。
どうやら、路線バスはスクールバスを兼ねているようだ。


二人の少女はともに目鼻立ちがはっきりした縄文系だった。
今回の旅行で気づいたが、日南地方は目鼻立ちのはっきりした美人が多い。全国各地から寄せ集めの新興都市の宮崎市とはかなり違う。それは陸の孤島のおかげで、縄文の血が薄まらずに残っているからだろう。

 日南市油津のバスターミナルへは十六時に到着した。
私の記憶にあるバスターミナルは大勢の乗降客がいて、いつも大混雑していた。
しかし、建物は廃屋のようにガランとして誰もいない。明るい日差しが差し込む待合室が虚しいほどだ。独り呆然としていると、掃除の小母さんが来て丁寧にトイレの掃除を始めた。堀川運河と乙姫橋方面へのバスについて聞くと、懐かしい日南訛りで親切に教えてくれた。腰が曲がったおばあさんだったが、見上げた顔は品の良い日南の顔立ちだった。


 バスが乙姫橋に近づいたので立ち上がると「バスが止まってから席を立ってください」と運転手に注意された。ついつい東京のせっかちなくせが出てしまう。乗客は老人ばかり四、五人で慌てて乗降する必要はなかったようだ。
乙姫橋は堀川運河にかけられた石造りのアーチ橋だ。堀川は飫肥藩によって作られた運河だ。それは港の一部で、昔は飫肥杉のいかだや漁船が繋がれていた。今は泥が堆積して、その機能は失われている。その一帯は一九九二年作「男はつらいよ・寅次郎の青春」の舞台に選ばれた。その時のマドンナ役は風吹ジュンだ。それから二十五年を経て、映画に登場した風景は乙姫橋と堀川の護岸を除き、ほとんどは失われた。


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1973年乙姫橋。
左手の建物に日南観光釣りセンターと看板がある。


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堀川上流、酒谷川からの取水路方面。
まだ漁業が活気があった時代だ。


乙姫神社にお参りした。記憶では明るく陽が燦々と差し込んでいるイメージがあったが、樹木が鬱蒼と生い茂り、鶯が鳴いていた。社殿が現代的なコンクリート作りに変わっているのは興ざめだった。その間、地元の人には全く出会わない。少し休んでいると、台湾から来たらしい家族が現れたが、すぐに去って行った。


その夜の日南かんぽの宿での会食の後、カラオケへ出かける友人たちを見送り、自室に戻り、翌日の大堂津小学校での講演原稿を考えていた。開け放った窓から、宿の下を流れる酒谷川の清流からカジカガエルの澄み切った声が聞こえた。不意に、父の土木会社のオンボロトラックで、酒谷川の河原へ土木工事用のグリ石を採取に来た時のことを思い出した。昔のトラックは小さくて雑で、運転席床板の隙間から浅瀬の水の流れが見えた。


 翌日、大堂津小学校で子供たちや父兄たちに絵について講演した。私は伝統技術が専門で講演依頼が時折ある。その時の聴衆は専門家ばかりで、難解なテーマでも問題なかった。しかし、子供たちはそれぞれの個性も興味も違い、全員を飽きさせずに話すことは至難の技だった。改めて、多様な子供たちに飽きさせずに教えなければならない、公立小学校の先生の大変さを実感した。

講演の後、旧知のお年寄りたちに会った。どの方も九十過ぎで、昔のままの大堂津弁の訛りを聞いていると、初めて郷里に戻って来た懐かしさが溢れた。

その後、大堂津駅へ向かう途中、細田川の堤防へ寄り道した。昔は堤防に小型の機帆船がたくさん繋がれていた。今は油津の堀川同様に泥が堆積していて、昔の面影はなかった。意外だったのは思っていたより川幅が広く、水が澄み切っていたことだ。堤防から川上の私たちが住んでいたあたりを眺めているうちに「うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川」を無意識に口ずさんでいた。


 宮崎市在住の井上氏が宮崎空港まで車で送ると言うのを固辞して、大堂津駅へ向かった。町中では、人にもツバメにもスズメにも犬猫にも出会わなかった。主要産業だった漁業が衰退すると動物たちもいなくなってしまうようだ。

宮崎行き列車の到着は一時間後だ。
大堂津駅裏の無人の海水浴場へ出て、休憩所のベンチに横になり空を見上げていた。
トンビが一羽、上空を舞っていた。それが大堂津で見た最初の生き物だった。
町並みはすっかり変わってしまったが、波音だけは昔と同じだった。
午前中の好天は、その時間になると雲が垂れ込め、雨がポツポツと落ちて来た。
慌てて大堂津駅へ戻った。

続きは日南紀行あとがき。17年6月4日へ。


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6月23日夕日、日没は午後7時。
右下は新幹線と埼京線の荒川鉄橋。
雨だとの予報は外れ、乾いた好天だった。
癌闘病中だった小林麻央さんが昨夜死去したことを知る。享年34歳。
彼女は「恋のから騒ぎ」以来親しんできた。
幼い子供を残して逝く母親の気持ちを思うと辛く悲しい。


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20日の風雨の荒川


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Goof

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