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2017年7月 6日 (木)

過剰治療をしない欧米の高齢者の終末医療。九州に帰郷してから東京の風景が懐かしく見える。17年7月6日

欧米での高齢者の終末医療についての記事。
それによると、スウェーデンでは高齢者が肺炎を発症しても抗生剤を使わない。
高齢者が肺炎を繰り返すのは自然な成り行きで、たとえ治癒してもすぐに再発し、苦しみを長引かせてしまうだけだ。だから無用な治療はしない。
同じ考えで、尿が止まっても利尿剤を使わない。
それどころか看護師が血圧や尿量を調べることもしない。
その他にも昇圧剤(終末期に極度に下がった血圧を上げる薬)、点滴、経管栄養、血液透析、人工呼吸器装着などもしない。
ちなみに、それらの治療は日本の病院では当たり前のように行われている。

オーストラリアの特別養護老人ホームでは、高齢者が弱っても口から食べ飲むだけに限定する。そのように対処すれば約2週間で自然死し、寝たきり老人は生まれない。
オーストラリア政府の緩和医療ガイドラインには「無理に食事をさせてはならない・栄養状態改善のための積極的介入は倫理的に問題がある・経管栄養や点滴は有害と考える」とある。そのように国が率先して延命治療からの離脱を指導している。

オランダの施設では終末期老人の尊厳のために点滴や経管栄養をしない。
オーストリアでは、終末期老人の食べない権利を認めている。
米国では更に衝撃的で、西海岸のある施設ではスプーンを口元に近づけることすら禁止している。

欧米で点滴や経管栄養をしないのは、終末期老人の尊厳を尊重しているからだ。その指針が医療費抑制にもつながっている。
日本では、そのような緩和医療はガンとエイズに限定されている。

私も終末期の母にそのように対処した。
往診していた家庭医も、無理に食べさせたり、水分補給をすると本人が苦しむからと、何もしなかった。だから、母は1週間で危篤に陥り、最期は医師を呼ばず一人で看取った。今でも、母の最期の呼気と心音を静かに確かめられたのはとても良かったと思っている。医師は母が逝った後に呼んで、死亡診断書を書いてもらった。

日本の医師は高齢者に義務的に無用な蘇生を試みることが多い。なぜなら、医師が何もしないと家族から医療放棄と訴えられたりするからだ。それで、高齢者に無理な治療をする姿勢が生まれた。

私の看取り方を非難する人はいなかったが、世間ではひどい子供だと非難する人がいる。それを恐れて入院させて骨と皮だけになるまで治療を続け、結果的に本人に多大な苦しみを与えている。
もし自然死なら脳内麻薬のエンドルフィンが分泌され、多幸感の中で本人は旅立つことができる。しかし、無理な延命をすると、エンドルフィンの分泌が枯れ、非情な苦しみの中で旅立つことになる。


ガン治療についての記述もあった。
昔から「ガンと闘え」と言われてきたが、統計では闘っても効果は全くない。むしろ、気にせず普通に暮らすのが一番延命効果がある。ダメなのは気にして鬱状態になることだ。こちらは目に見えて悪化し死を早めてしまう。

祖母は50歳の時に胃ガンと診断された。
しかし、本人は全く気にせず、治療せずに平気で暮らし、85歳まで長生きして肝不全で死んだ。
世話をしていた母によると、腹部に固いしこりを感じたが、全く大きくならならなかった。
昔はそのようなのんびりした老人が多く、祖母のような例は数多くあったようだ。

そのような祖母に接して来た母も自分のガンについてはほとんど気にしていなかった。
母は80歳の頃にガンが見つかり、80代は毎年のように手術をしていた。そして、90歳での肝臓ガンの大手術の後は「何が起きても何もしない」と自ら宣言して、97歳で心不全で死んだ。

記事によると、ガンは完治しない慢性病として捉え、共存するのが一番良いようだ。しかし、情報過多の現代、ガン宣告を受けながら平静に生きるのはとても難しい。


締め切りに追われ、半世紀欠かすことなくお詣りして来た6月30日、7月1日の十条のお富士さん詣でを忘れていた。お富士さんとは十条富士塚のお祭りの、地元での愛称だ。

先日、昼寝をしていて十条のMさんの夢を見た。
夢の中で、私は十条のMさんの家で飲み会をしていた。
ビールを飲み過ぎて葡萄棚のある縁側で涼んでいるとMさんがやって来た。
「仕事が忙しいの。たまには顔を見せなさいよ」
まだ若い元気な彼女が笑顔で話しかけた。

実際のMさんは母が死ぬ4年前、84歳で亡くなった。
目覚めてから、もうすぐお盆だと思った。
いつもはお富士さんのついでに、十条の雪峰院のMさんの墓をお参りしている。しかし、お富士さんを忘れていたので墓参りもしなかった。

その日の午後、早速十条へ出かけた。
日差しは強くて暑い。
十条銀座の酒屋でミネラルウォーターの大瓶とカップ酒を買った。

商店街のアーケードは冷房が効いて心地よかった。
十条は大型店が進出していないので、商店街が昔のままに賑やかだ。
それで最近はテレビ番組で取り上げられることが増えた。

裏道を進んで雪峰院へ出た。
墓石に酒をかけ、ミネラルウォーターで洗い流し、手を合わせていると気持ちが安らいだ。


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再度、裏道を辿って富士塚へ向かった。
住宅地の路地に昔風の八百屋があった。
赤塚不二夫の「もーれつア太郎」の八百屋にそっくりだ。
綺麗に並べられたトマトがとても新鮮で美味しそうだった。
買い物していたアラブ系の男性が女主人と楽しそうに話していた。
傍の電柱の街灯もなんとなく昔風の裸電球のように見えた。
その奥に銭湯が見える。
十条には昭和が色濃く残っていた。

静かな路地奥の樹木に覆われた富士塚を登って、頂上の小さな石の祠にお詣りした。
今まで懐かしさなど感じなかった街なのに、今回は不思議なほど懐かしくて感傷的になっていた。
もしかすると九州日南へ帰郷したことが影響しているのかもしれない。心の中で純粋培養されて来た郷里が現実に触れたために消え去り、懐かしさの時系列が大変動したのだろう。


今日は湯島天神へ出かけた。
古いお札などが沢山たまってしまったので、それを納めるためだ。
夏日差しが強いので、汗をかかないように休み休み歩いた。
上野公園から不忍池かけて、相変わらず外国人観光客が多い。


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弁天堂からの上野の山夏景色。
不忍池のハスが咲き始めて美しい。

おみくじを引くと小吉だった。
以前は凶ばかり引いていたので嬉しい。
一緒に金メッキの招き猫が入っていた。
様々な開運招福の像があるが、私は招き猫を期待していたので二重に嬉しかった。

不忍池端に宝くじ宣伝用の大型車が止まっていた。
スクラッチくじを5枚買うと200円が当たった。
最近、外ればかりだったので金運がもどったと思った。


十条での感傷がまだ残っていて、いつになく上野風景が懐かしく美しい。
湯島天神には受験生らしい若い女子が多く来ていた。
彼女たちは楽しそうに七夕飾りに群がり、短冊に願い事を書いていた。
最近都内各所で見かけるスタイル抜群の外国女性たちと比べ、日本女性たちがとても魅力的に見える。それは日本女性特有の優しい物腰のせいかもしれない。


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帰り道、いつものように東京北医療センター庭で休んだ。
夕暮れの風が心地よく、汗が引いた。
病院の屋上庭園上に積乱雲が見えた。

日差しは強かったが、荒川土手あたりで突然に雲が垂れ込め、住まいの玄関エントランスへ入ると同時に大粒の雨が落ちて来た。
またしても運がいいと思った。


Ma_3

Ma_4

Ma_5

Goof

Mas

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