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2017年12月27日 (水)

「ソラリスの海」と、スマホ差別で取り残される中国の老人たちと、25連敗で終わったコンペ。17年12月27日

前回記入したデザイン系コンペはかすりもせずに落選した。
これほど、審査員の意図と、私の制作意図がかけ離れたコンペは珍しい。
わかりやすく言えば、クラシックバレーコンテストに阿波踊りで参加したような気分だ。
齟齬は予測できたが、今回は新たに自由課題部門が設けられ「自由闊達な作品を期待している」とあったことに幻惑されてしてしまった。

発表された受賞作品群は進化も楽しさもなく今まで通り寂寥感が漂っていた。楽しく魅力的な作品ができたと確信していたので落選のショックは大きい。しかし、2時間後には気を取り直して次のコンペ用の作品制作に入った。
ファインアートの公募でも同様のことは起きる。「清新な才能を求む」のキャッチコピーにつられて応募してみると、受賞作品は保守的な作品ばかりで変化なし、ってことは珍しくない。

これで今年のデザイン系公募は25連敗で終わった。
1月以後に結果が分かるのは5件。それらが敗退しても応募は続ける。必然性を感じて行動すればいつか開花するものだ。ここまで落ちると、どんな挑戦でも気楽にできる。最低の73才からどこまで這い上がれるか興味はある。
ちなみに、デザイン会社から請われての企業カレンダー・プレゼンで75連敗したことがある。こんなに負け続けた者はいないだろうと思っていたら、有名イラストレーターが「150連敗して、それ以後のカレンダー・プレゼンは断っている」と話していた。上には上があるものだ。


中国人ライターによる中国のスマホ事情の記事を読んだ。
中国では、買い物のほとんどがスマホ決済に変化しただけでなく、病院予約までスマホ優先になっている。その結果、スマホを持っていない老人たちは早朝から病院へ出かけて待つことになる。しかし、スマホ予約で来た若者たちに次々と追い抜かれ老人たちは疲労困憊してしまう。

中国では流しのタクシーはほとんどなく、タクシーはスマホで呼び寄せるシステムに変わった。スマホを持っていない老人たちは路傍で滅多に来ない流しのタクシーを待ち続け、疲れて倒れ救急車を呼ぶことになる。

留守荷物を預かる宅配便ボックスからの取り出しもスマホをかざさないとできないとできないシステムだ。スマホを持っていない老人たちは荷物を取り出せず、荷は送り主に送り返される。

どれも無駄がなく合理的なシステムだが、スマホの恩恵に浴しているのは使いこなしている若者や壮年たちだけだ。老人には小さなディスプレイ文字は読みづらく、老人の乾いた指先ではタッチ操作の誤作動も多い。さらに、しばしばパスワードを求められて入力するのも老人には厄介だ。全てがスマホに代わったら使えない人たちは取り残され、不公平な世の中になってしまう。

ファックスでの画像送付や、ネットではなく窓口手続きすることすら遅れていると思い込み、現金やガラケーを軽蔑する者がいる。しかし、大規模停電や磁気嵐が起こればネット環境は混乱する。電子ロックも作動しなくなって、自宅には入れない者が続出する。スマホは未完成の技術で事故や災害には極めて脆弱だ。故障もすれば電池切れも日常的だ。セキュリティーの要パスワードは、忘れてしまったら万事休すだ。現金を紛失すればその額だけの損失で済むが、金銭決済ができるスマホが悪質なものの手に渡れば全財産を失い多大な負債を負うことになる。だからこそ、新旧技術が共存する多様性は重要だ。携帯電話が全盛になった今も公衆電話は必要だ。海外で権利や命を守ってくれる重要なパスポートは今の技術水準では絶対にスマホ化されない。


100分de名著、レム著の「ソラリス」は昨日終わった。
ソヴィエト時代の1972年タルコフスキー監督「惑星ソラリス」は名作だった。

ソラリスの海は心の深層にある特別な人の記憶を具現化して人工衛星に送り込む。
主人公ケルビンの自殺した恋人ハリーもその一人だ。ケルビンはソラリスによって再構成されたハリーとの愛を完遂しようとしたが、ハリーはまたしても自殺してしまう。


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ソラリスの海と昆虫のような宇宙船(私の解釈)を描いた。

レム原作では「ソラリスの海」は、最後のシーンで人間の理解を超えた不完全な神として描かれていた。しかし、タルコフスキーは主人公ケルビンの記憶にある、故郷の死んだ父と家をソラリスに再現させてノスタルジックに終わらせた。原作者レムはその変更を怒り、大喧嘩をしてポーランドへ帰国してしまった。

人が神に対して不完全と言うのは不遜だ。
番組解説者はソラリスの海を人の延長線上の西欧的な神として捉えていたのだろう。
私は老子の言葉「天地は不仁なり」をソラリスの海に重ねる。東洋思想では神は人のために在るのではない。人は宇宙の無限の現象の小さな一つとして生まれただけのことで、人から見て神が不完全に見えるのは至極当然なことだ。


これれから大晦日にかけて、大晦日締め切りの作品制作とおせち料理に入る。年末の慌ただしさは嫌いだ。いつか、のんびりと何もせずに正月を迎えたいものだ。

大掃除をしながら、昔の彫金職人時代の仕事道具の埃を払った。道具を手にすると走馬灯のように当時のことを思い出す。今の貧乏絵描き生活と違い、当時はとても収入が多かった。母も姉も友人たちも皆元気で活気があった。母は晩年「昔が懐かしいのは自分が若く元気だったからだね」と話していた。それは感覚的に理解していたが、今はさらに深く実感している。

好きで選んだ今の生活でも、老いの寂しさは如何ともしがたい。先日、番組で橋田壽賀子が生は寂しく未練はないと語っていた。あれほどの成功者でもそうなのだから、私の寂しさなど当然過ぎるのかもしれない。


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