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2018年8月15日 (水)

死と死別について、哲学者たちの考察。赤羽夏景色。18年8月15日

月曜は激しい雷雨が来て近所に幾度も落雷した。過電流で破損しないようにパソコンは止めておいた。
午後3時過ぎ、雷が遠ざかったので散歩へ出た。湿度が高いのは苦手だが、スコールの後は見慣れた街が熱帯に変身し新鮮に感じた。

翌日は35度になったが湿度が低く心地よかった。
午後3時、大汗をかきながらグイグイ歩いた。


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紅白の夾竹桃。鮮明な紅白は珍しい。


赤羽駅近くのドトールで頼まれたロゴを5パターンほど描いた。百席ほどある大型店で長居しやすく仕事が捗る。客は受験勉強の高校生や事務処理をしているサラリーマンなどが多く、皆一人で黙々と仕事をしている。

その中で、お喋りに来ている女性グループはとてもうるさい。リーダーらしき一人が壊れた蓄音機みたいに話し続け、その他大勢は相槌を続けているだけだ。会話に発展性がなく雑音そのもので、耳に入るとひどく疲れる。だから、騒音を打ち消すiPodは必須だ。

明日は15日。
ドトール帰りにイトーヨーカ堂で神棚用の榊を買った。
夜風が心地よく、遠回りしたくなって昔住んでいた赤羽台を抜けた。

旧居あたりはすっかり様子が変わり、マンションなどが建っている。
私が住んでいた20年前は、マンション敷地に木賃アパートと小さな洋品店があった。家主は木賃アパートの住人を追い出そうと、若いホームレスを住まわせた。無精髭の青白い若者は昼夜大音量で歌謡曲をかけ続け、耐えきれなくなった店子たちは自ら退去してしまった。
強欲だった家主は、晩年、重病を病んだ。時折、散歩道で出会うと、好々爺に変身した彼は穏やかに黙礼した。

マンション敷地にあった寂れた洋品店で母はダウンのコートを買ったことがある。どうみても割高に思えたが、母には黙っておいた。
母はそのような店を見ると同情してしまう癖があった。
母の車椅子を押していた頃も、小さな店を見ると、必ず「何か買ってあげなさいよ」と言った。昔の貧乏の苦労がそうさせていたのだと思う。


昭和28年、朝鮮動乱の末期、資材値上がりのため、父は受注した土木工事で大赤字を出して大負債を負った。生活できないと知った母は、躊躇なくコロッケ屋を始めた。
朝3時から家族総出でコロッケを作り、母はコロッケを大きなブリキ缶に入れて背負い、隣町へ行商に行った。しかし、コロッケ屋は巧くいかず半年ほどで廃業した。

その後は市販されたばかりの毛糸編み機を買い入れ、セーターなどを編んで生活費を稼いだ。今と違い、機械編みが手編みより上等とされていた。

食糧難の終戦直後、母は知り合いを頼ってその小さな漁師町に引っ越して来た。母はスラリと背が高く色白の美人で、町では東京から女優さんが来たと噂された。
漁師町で母はちやほやされたが、生活できないと知ると、家族のためにプライドを捨て油まみれになって働いた。母はその頃の辛さを知っていたので、寂れた店をほおって置けなかったのだろう。


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赤羽夕景。
古いビルの角に「飲み放題」と書いたボードを手に美しい人が立っていた。
酔客が思わず声をかけたくなるくらい、美しい人だった。
しかし、鼻の下を伸ばしてうっかり声をかければ、怪しい店へ案内され、ぼられてしまうのがオチだ。
美しいバラには棘。
美女の毒に痛めつけられたいと思うのも男の性だ。


先日のEテレ「世界の哲学者に人生相談」のテーマは「死」と「死別」だった。
古代ギリシャの快楽主義者エピクロスの答えは「我々が存在するときは死は存在せず、死が存在するときは我々は存在しない」
意味は「生きている人に死は理解できない」
事実を説明しているだけで、その答えによって「死」と「死別」の悩みから解放されるとは思えない。彼が提唱した快楽主義の快楽は心が落ち着く全てのことだ。

20世紀ドイツの哲学者ハイデガーの答えは「死を意識するから人生は輝くのだ」
逆に言うと、人生に死がなかったらな、真剣に人生を生きる意欲が失せて味気なくなる。だから人生に死が存在することは素晴らしい。死を肯定したとしても「死」や「死別」の苦悩から解放される訳ではない。

18世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーの答えは「自殺は真実の救済にはならない」
彼は人が苦悩から脱出しようとするとき、心の手術がなされている、と考えた。もし、人が苦悩することに耐えきれなくなって自殺などに逃避すれば、手術は完遂せず、苦悩から解放されることもない。逃避せず、苦しみながら心の手術をやり遂げれば苦悩は本当に解決する。
ハイデガーとは逆に「生の哲学」の先駆けでもあった。

20畝世紀ドイツの社会心理学者で哲学者のフロムの答えは「人生の意味がただ一つある、それは生きる行為そのものである」
人生は頭で考えることではなく、生物として生きていることに意味がある。人はそこまで素直になれないから「死」に悩む。著書「自由からの逃走」で彼は生きる意味を説いた。

戦前の日本の哲学者・西田幾多郎の「死別」の苦しみに対する答えは「後悔の念が起きるのは、自己の力を信じすぎるからだ」と、人は死を左右できるほどに万能でも強くもないと彼は考えた。それは実際の体験によるものだ。彼は8人の子供をもうけたが、そのうち5人と死別した。その死別の悲しみが彼の哲学に大きな影響を与えた。
彼は「純粋経験=ありのままに経験すること」を説いた。そこに老荘思想や仏教を感じる。それらの根本思想は受け身に生きることだ。西田は物事を思いのままに左右できると思うから苦悩が生じると言った。自我が周り影響を与えるとする西欧哲学はその誤謬に陥っている。
「折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰謝である。死者に対しての心づくしである」死別した者を無理に忘れる必要はない。死ぬまで死者の思い出を引きずって行っても構わない。現代のグリーフケアも同じように考える。今回の答えの中で彼の考えが一番納得できるものだ。彼は西洋と東洋の哲学を融合させ、日本初の哲学書「善の研究」を書いた。

私は「自分の死については考えても無駄だ」と思っている。
どんなに死の準備をしても実際の死では役に立たない。
なぜなら、死ぬ時の脳は病んでいて、自我、正義、道徳、悟りなどの知性は消滅しているからだ。人類史の中で膨大な人が死んだが、完全な死を体験した後、生き返って死とは何かを報告した者は一人もいない。(完全な死は蘇生しない状態)。ただし、死寸前の臨死体験や動物実験による死に至る脳の活動の研究例は多く残され、死がどのようなものかはほぼ分かっている。

脳挫傷で死にかけた友人は、頭の激痛が消え、心地よい静けさの多幸感に包まれた、と話していた。無謀な全身麻酔で死にかけた母も、人生の中で経験したことがない美しい多幸感に包まれていたと話していた。

生涯、禍々しきものに遭遇しないで済むなら苦悩はない。実際は不遇、病、死と次々とやってくる。幸せの極意はそれらを恐れないことかもしれない。本当に死ぬ時、脳内麻薬のエンドルフィンが多量に分泌され多幸感に包まれる。だから誰でも心地よく本当の死を迎えることができる。
先日、死刑を執行されたオームの受刑者たちも、死に対する恐怖や苦痛は執行と同時に消え、涅槃寂静の境地に達したはずだ。

ただし、終末期に気をつけなければならないことがある。
回復の見込みのない延命治療を長期間続けるとエンドルフィン分泌機能が疲労し、多幸感が得られなくなる。それこそが本当の無間地獄の苦しみなのかもしれない。


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