「平成ネット史」は正月番組で最高に面白かった。そして、スーパー・レジの女の子に荘子の「胡蝶の夢」を感じた。 19年1月14日
正月は一瞬で遠く駆け去ってしまった。
今年の冬は穏やかで、刺すような寒さは一度もない。
今日も雲一つない好天。荒川土手をジョギングする人たちが気持ち良さそうに行き交っていた。
病院下公園。
連日、このような青空が続いている。
正月番組で一番面白かったのはEテレの「平成ネット史」だった。私がパソコンを始めたのは阪神の大震災の後、Windows95が発売されてから3年後の平成10年の54歳からだ。画像処理が目的だったので最初のパソコンはパワーマックにした。それまでの長い期間、ワープロを使っていたのでタッチタイピングはできた。
操作は入門書片手の独学で1日20時間はパソコンをしていた。作業の98%は無駄な試行錯誤の繰り返しで、膨大な時間を費やしてしまった。2ケ月後にHTML言語だけて簡単なホームページを立ち上げ、デイスプレーにホームページが映った時はとてもとても感動した。
当時のインターネットの接続スピードは今の3500分の1と、とてつもなく遅く、毎月通信料が10万を超えていた。それでも、今より余裕があったので苦もなく支払っていた。
番組ゲストたちの殆どはまだ学生で、午後十一時からの割引時間に殺到し、アクセスできなくて苦労したと話していた。そうやって、真っ先にアクセスしたのが米国のNASAとホワイトハウスだったと話していたが、私もNASAに接続して、月や地球や木星や星雲の鮮明な画像を見て大感激した。
ホームページはアクセスしてくれる人のために画像はできる限り軽くした。今は死語になってしまったがプログレッシブ変換と言う画像表示方法があった。それは最初に碁盤の目状の荒い画像が表示されて、サラサラと鮮明になって行く表示方法だ。プロバイダーが「今、一生懸命に仕事をしているよ」とアピールするためだけの機能で、決して通信が軽くなるわけではなかった。
当時はパソコンにのめり込みすぎて、夢までがプログレッシブ変換で現れ、夢の中でもっと軽くと呟いていた記憶がある。
上画像はガラケーのためにホトショップで1ドットづつ手作業で色を置いて作った。だからとても軽く、古い通信速度でも素早く正確に表示された。
スキャナーやプリンターは機器ごとに厳格に振り分けるSCSI(スカジー)方式でパソコン本体と繋いだ。自由に繋げるUSB接続が現れた時は便利さに驚いた。
インターネット接続は電話回線の時間買いから始めた。それから少し早く通信できるISDNを経て、動画対応のADSLに変わった。しかし、渋谷駅前で出版社を経営していた身内を訪ねた時、光回線の速さに驚愕した。だから、光回線が一般化された時はすぐに契約した。ちなみに、今のマックは9台目だ。今の公営集合住宅に配置されている光回線を使っているのは我が家だけだ。
ホームページ普及の初期に立ち上げたので、付き合いのあった画材屋や絵の具メーカーが紹介してくれた。おかげで、初心者としてはアクセスは多かった。ブログは母の介護が始まると同時に始めた。1日に30アクセスほどだが、ブログに介護の苦労を吐露できたおかげでとても癒された。
ツイッターの類は、特有の若者言葉が嫌でやらなかった。
番組でホリエモンたちは、2チャンネルや、フェイクニュースの酷さを嘆いていた。
スマホが登場した時、今ほど世界を席巻すると予測できず、ガラケーを追い抜けないとブログに書いた。その予測の8割は間違っていたが、今でも2割は正しかったと思っている。しかし、スマホの普及によって、それまで数十万円ほどしたセンサー類が1万分の1まで値下がりし、電子機器の普及に大きな功績があった。
スマホはこれからも持たない主義だ。なぜなら、在宅の時、絵を描いている以外は殆どパソコンをしているので、散歩中までパソコンに縛られたくないからだ。
ラインは三陸の震災の時、繋がらない電話の代わりになる通信手段として短期間に作られた、との逸話はこの番組で初めて知った。
「平成ネット史」を見ながら、インターネットの歴史を走馬灯のように思い出して、心底、懐かしかった。番組ゲストの、ホリエモンをはじめとするクールな今風の若者たちが、ネットについて熱く語っているのも面白かった。番組を見終えてから、平成はまさしくネット史そのものだと思った。
最近、時折見かけるスーパーのレジの女の子。瀬戸内海あたりの海の香りを感じる。律儀で元気な子だ。
浮世絵の技法書に、少女を描く時は、首は細めに額は暗く描くべし、とある。確かに、おばさんの首は太い。対して少女の首は細く、額は日に焼けて少し暗めだ。この子も細い首が初々しかった。
赤羽は銀座方面も新宿渋谷方面も乗り換えなしで行ける。そのように交通の便が良いのに家賃は安く暮らしやすい。そのせいか、タレントを目指す若者たちが多く住んでいる。だから、とんでもなく可愛い子が八百屋やパン屋でアルバイトしていたりする。この子も、そのような一人かもしれない。
美人だとチャンスに恵まれ楽しい。女性なら、魔法か何かで、美人に変身した自分を夢見たことがあるはずだ。男でも、スパーマンみたいな逞しい肉体にノーベル賞クラスの頭脳を持ちたいと夢見るたりする。もし、図抜けた容姿に天才的な頭脳を備えていたら、世の中の殆どの夢は達成できる。
科学が進化した未来では、魔法を使わなくても変身は可能だ。倫理的ハードルは非常に高いが、自分のクローンを遺伝子操作で改良したもう一人の自分に、自分の脳のデータを入力すれば、優れた肉体と頭脳を備えたもう一人の自分が生まれることになる。仮に、オリジナルの自分が臨終の間際だとすれば、一瞬で若く元気な自分に変身できるわけだ。
ただし、それには大きな問題がある。オリジナルの自分の死は止められないわけで、死の問題は何ひとつ解決しない。
しかし、老荘思想では自我は絶対的ではない。そこで語られる自我は実に頼りないもので、人は天地に翻弄されながら、自分を曖昧に意識しているに過ぎない。
荘子の寓話に「胡蝶の夢」がある。
・・・荘周は夢の中で楽しく蝶になりきっていた。その時の自分は、荘周であることを完全に忘れていた。そして目が覚めると、荘周に戻っていた。しかし、今の自分は、荘周に変身した夢を見ている蝶なのか、それとも、楽しく舞っている蝶に変身している自分を夢見ている荘周なのか、区別がつかなくなった・・・
「胡蝶の夢」の解釈は様々だが、西欧哲学に影響された現代では意識が変わっても主体は一貫して同じだと解釈する人が多い。しかし、本来の老荘思想では、自我は天地との関わりの中で一つの自分ではないかと微かに自覚している程度のものだ。だから、先述のようにオリジナルの自分が死ぬことで消えても、意識や記憶をコピーされた健康なクローンが自分だと確信するなら、自分は若返ったことになる。
実に奇妙な論法だが、自我はそのように環境によって極めていい加減に構築されたものだ。だから、昨日の自分と今日の自分に一貫性を感じる自意識は極めて曖昧なものだ。
昨日の自分と今日の自分を繋ぐものは記憶だけだ。現実と記憶や意識との間に矛盾がなければ、人は昨日も一昨日も、今日と同じ自分だと思い込んでしまう。
連続する自分について考え始めたのは、10年前、胆嚢切除手術で全身麻酔を受けた時からだ。その時、「これから麻酔をかけます」との麻酔医の言葉が聞こえた直後、間を置かず麻酔から目覚めた。もし、手術中に私が死んでいたら、自分の死に全く気づかなかったはずだ。その麻酔中に、自分の肉体がクローンと入れ替わっていたとしても、同じ自分である自意識は変わりないはずだ。
将来は毎日の眠りでも同じことが起こり得る。
もし、自分が寝入っている間に、クローン技術で再生されたもう一人の自分にオリジナルの自分の記憶や意識がコピーされたとすると、目覚めた自分は入れ替わったことを意識しない。人は自分に都合よく現実を受け入れる。コピーされたクローンの自分の方が、オリジナルより元気で美しかったら、誰でもコピーをそのまま受け入れてしまうものだ。
昨日も今日も同じ自分だと確信できるのは、いつも変わりない絶対的な自意識があるからではない。単純に周りの環境からの刺激でそう感じているに過ぎない。朝目覚めて家族と言葉を交わし、同じテーブルで朝食をとり、同じ道を歩いて駅へ行っていつもの電車に乗って会社へ行く。そのように同じ環境が繰り返されることで昨日と今日の自分は同じだと確信する。
しかし、環境が激変すると、自我は混乱しアイデンティティは失われる。そのような出来事を近年日本人は二度味わった。前者は神戸の震災で、後者は三陸の大津波だ。二つの災害で多くの人が家族や故郷の風景を一瞬で失って、自我の脆さを痛感してしまった。
サルトルあたりまでの哲学では自我を絶対的なものとしていた。社会科学ではそれは正しく、その考えが戦後の様々な変革を牽引してきた。しかし、現代哲学では、自我を絶対視しない考えが生まれている。去年末のEテレに、世界的にヒットした哲学書「なぜ世界は存在しないのか」を書いた、マルクス・ガブリエルという新進気鋭の哲学者が登場した。
彼はスケートボードで颯爽とNHKのスタジオに現れ、自信満々に自説を披露していた。彼は実存主義をはじめとするヨーロッパ的な哲学に異を唱えていたが、老荘思想を無意識に身につけている日本人なら斬新に感じなかったはずだ。
病院のカフェ。5時をすぎるとこの暗さだ。
空調が程よく、コヒーが美味しく静かで居心地が良い。
しかし、店じまいは6時30分と早く落ち着かない。
せめて8時まで営業してくれたら助かるのだが・・・
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