藁苞納豆の思い出。出版氷河期でも、ホリエモン絡みの本は売れている。19年4月9日
書店好きで、時間があれば立ち寄って平積みの新刊をパラパラと眺めている。
出版に長く関わってきたので、氷河期の業界の厳しさは身にしみている。今は単行本初版5000部を売り切り重版できたら、担当者たちは小躍りする。絵本はさらに悲惨で、新人の場合、初版1000部でも売り切るのはほとんど不可能だ。先日亡くなった樹木希林さん著「一切なりゆき」文春新書の発行部数はあっという間に100万部を超えて重版を続けている。それは彼女が超有名人だからで、出版界では異例のことだ。
近年、書店で目につくのはホリエモン絡みの新刊だ。常に4,5冊は平積みされている。彼にはコアな支持者がいて彼が絡んだ本はよく売れる。だから、新人の絵本の帯に「心に染み入る絵本です=ホリエモン」などと言葉を寄せてもらったら売れ行きは倍増するはずだ。ただし、有名人の言葉への謝礼は、作者が受け取る印税より多額となる。
先日彼は「大して美味くもない納豆をゴリ押ししてくる」とブログで発言して、納豆好きたちから叩かれていた。私見だが、発酵食品の納豆の美味しさがわからない者の味覚は信じられない。他にも、新幹線の座席を倒す時、後ろの人に配慮することや、ATMで現金を出し入れしているのも彼は気にくわないようだ。
彼は優秀な頭脳を持っているが、人間としては一粒の米も一本のネジも生み出せないひ弱な存在だ。それに対して彼は「生活必需品を全て自分で生み出せる者などいない。自分は資金を提供して生産者を支援しているから生産者と同じだ」と反論するだろう。それは論理的には正しい。しかし「納豆など、ものづくりをしている人たちへの敬意を忘れないでほしい」と思っている。
以前は、ホリエモンの発言に拍手していたが、最近鼻についてきた。彼の精神が、上海あたりで小銭を稼いでいる出稼ぎ日本人や、税金逃れにシンガポールへ移住している金持ちたちと同化しつつあるからだ。同じ言葉でも、サンマやタケシなどの芸人なら嫌味がない。ホリエモンの言葉に共感できないのはユーモアのセンスがないからだろう。
とは言え、彼の行動は可笑しい。
先日、東大合格を公言し、二次で落ちて「数学を甘く見ていた」と言い訳したこと。以前、彼が公開した自分ヌードを偶然にネットで見つけて、デブ専向けのおばさんヌードだと一瞬思ったこと。どれも可笑しかった。
彼は世間を笑わせようと行動した訳ではない。
真面目にやるほど可笑しくなるのが笑いの基本だ。
8日月曜は冷たい雨。
病院庭の新緑と散り始めた桜。
土曜日の新河岸川河畔遊歩道。
桜並木の花吹雪の中、浮浪者が歩いていた。
彼ら自由人の風貌はどれも見事だ。
花吹雪 香りて消える 遠い日々 --新作
納豆に話を戻す・・・私は南九州の小さな漁港大堂津の育ちだが、子供の頃から納豆が大好きだった。
60年以上昔の小さな漁師町には納豆など売っていなかった。
母は体の弱い兄のために隣の大きな港町である油津から買ってきていた。
納豆は美味しいだけでなく、昔から最強の健康食品だった。
当時の納豆は本格的な藁苞納豆だった。
私は藁苞に残った納豆粒を食べて、こんなに美味しいものはないと感動した。しかし、食欲のない繁兄はまずそうに渋々食べていた。兄は他にも、牛乳やチーズと、私とは違う特別な食事をあてがわれていた。
後年、そのことを母に話すと「正喜は食欲のある元気な体に育ったんだから、繁より幸せでしょう」と笑っていた。
兄は高身長に成長した。
私は父方の血を受けて、普通サイズにしかなれなかった。
私は兄が嫌って食べなかった煮干しや乾物などは十分に食べていたので、栄養のせいではない。
母方の従兄弟たちは180cm以上の大男が多い。
母の祖先は筑後の黒木氏から分かれた星野氏である。本家黒木氏は大内氏に滅ぼされたが、母の祖先は生き残り、徳川氏が全国を平定してすぐの久留米藩有馬氏に仕えた。その時の総領は6尺豊かな大男だったと古文書に残っている。彼は藩の鷹狩りの時、殿様へ向かってきた大猪を素手で組み伏せ、その武勲で重臣に取り立てられた。まだ戦乱の気配が残っていた時代である。丹波福知山から久留米へ入封したばかりで、地盤が固まっていなかった有馬氏は即戦力を求めていたのだろう。
繁兄が高身長に育ったのは、納豆やチーズなどの栄養の所為ではなく、祖先からのDNAのおかげだった。
幾度もブログに記入したが、兄は重度の紫斑病で医師に40歳まで生きた例はないと言われていた。
日南高校時代、兄は開闢以来の秀才と言われていた。兄は、教科書は一度読めば全て頭に入って復習する必要がなかった。だから、大学はどのような難関でも簡単に突破できた。しかし、兄を溺愛していた祖母から「九州から絶対に出るな」と猛反対され、兄は九大に入った。しかし、本当の理由は祖母の反対ではない。将来に対してニヒルになっていた兄には、大学などどうでも良かったのが真相だ。
九大に入ってから、兄は学校へは行かず、マジャーンと酒に溺れ、理系から大好きだった仏文に専攻を変えた。
子供の頃「黙って勉強していれば医者になれたのに」と母が一度だけぼやいていたのを記憶している。母としては医学を研鑽して自分の体を労って欲しいと願っていた。
兄は医師に告知されていた通りに紫斑病が悪化し、休学して帰郷した。
それは消化管や心肺など身体中が大出血を起こす難病で、兄は幾度も危篤状態に陥った。
しかし、大出血の都度、漁師町の屈強な若者たちが大量の輸血をしてくれて命は助かった。
大学は紫斑病が原因で自然退学した。
その後数年間、兄は大出血を起こしては若い漁師たちからの大量輸血で助かった。
健康な血液の輸血を繰り返すうちに奇跡が起きて、兄の体質は激変し紫斑病は寛解した。
健康になったのを機に兄は美容師をしていて生活力があった義姉と結婚した。
その後、兄は通信教育で教師の資格を取って都城の中学教師に赴任した。
しかし、デカダンスな性癖はなおらず、ウイスキーを浴びるように飲む生活を続け、43歳の秋、学校で脳出血を起こして急死した。
「先に逝った家族たち」2016年作
左手前は私。それから右へ、母、父、繁兄、祖母、姉を描いた。
飛び回っているツバメたちは、今の集合住宅のエレーベーターホールに営巣したツバメの雛たち。彼らは巣立つ前にカラスに捕食され短い一生を終えた。
桜は散り始めて、青葉が目立ち始めた。
明日10日は郊外では雪になるとの予報。
花の夢 醒めて 青葉の風寒し --旧作
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