美智子妃ティアラ後日譚。都会から田舎暮らしへ、の問題点。令和元年5月4日
今日4日は朝から好天。
天皇陛下ご即位を祝う一般参賀への参列者は東京駅から続いている。
皇居内へ入れるまたとない機会で、行って見たい気持ちはあるが、朝から行かないと到底無理なようだ。
雅子妃が皇后になられて、美智子妃のご成婚で使われたティアラが再度注目されている。
それは1959年・昭和34年の皇太子ご成婚に伴い、新たにミキモトが総力をあげて制作したティアラだ。制作の経緯については、以前「美智子妃ご成婚のティアラの制作について。12年6月11日」に書いた。
皇太子妃のティアラは香淳皇后のティアラと比べたら格下になるが、戦後の高度成長期に最高の職人を集めて制作されて、技術史に残る最高傑作だった。
その仕事の中で最高難度の削りを一人で成し遂げたのが私の師匠、渡辺弘氏だ。渡辺氏は昭和の大名人と賞賛されていたが、極めて控えめな人だった。その師が一度だけ、ティアラの削りは人生最高の仕上がりだったと話したことがある。師の仕事をよく知っている私はその言葉から、そのティアラが最高傑作だったと確信した。
ダイヤのふちの地金を削るのは、やり直しのきかない一発勝負だ。
彼は大粒のダイヤが並ぶ地金際を削り残しなく鏡面に一気に削りあげた。
その作業は大変なプレッシャーで、大仕事を終えた彼はストレスからの重度の口内炎を発症してしまった。あらゆる専門医や大学病院を受診しても好転せず、その間、流動食しか口にできなかった。
口内炎は1年近くかかって自然治癒したが、氏の夫人がよく「お父さんはあの仕事で10年は命が縮んだ」と話していた。その言葉通り、氏は60代に入ってすぐに肺がんを発症し、1年半後に亡くなった。
前記ブログに記入したティアラ写真の毎日グラフ流出事件ついては、後年、婦人雑誌に掲載され、流出したのは制作途中の未完成ティアラ写真だとされてた。記事を読みながら、うまい言い訳をしたものだと思った。
その後、2014年にテレビ局数社から、ティアラ制作秘話や顛末を聞かせてほしいと言って来た。最初に我が家を訪ねて来た社に「ブログに書いた以上のことは話せない」と話した。そして、他局からの依頼は全て断った。
あとで送られて来たビデオを見たら、まだ存命のミキモトの職人さんを取材していた。ミキモトの職人さんたちは口が固い。当然ながら番組では余計なことは何も語られていなかった。
以前、ネット上で「美智子妃のティアラは売却され、代わりに銀の偽物が作られた」とまことしやかに広まっていた。
それは噴飯ものの噂だ。技術面からその間違いを指摘すると、銀細工はプラチナ細工よりはるかに難しく、美智子妃のティアラを再現するのは不可能だ。なぜなら、銀は熱伝導率が最高に高いからだ。銀細工を製作中、一点をロー付けしていて、ほんの少しでも火が強すぎるとると伝道熱で隣のロー付けが溶融しオシャカになってしまう。
ちなみに「オシャカ」は江戸職人のダジャレから生まれた。語源はお釈迦様の誕生日「四月八日」。江戸っ子は「ひ」を「し」と発音する。だから「火が強かった」を江戸っ子は「シガツヨカッタ」と発音し、それが「四月八日」となって「オシャカ」に変わった。
今は電気ショートを応用したスポット溶接を普通の職人さんも使っている。スポット溶接で素材を仮付けして組み立て、仮付け箇所を一斉にロー付けすれば、銀細工のオシャカになりやすい問題点は解決する。
プラチナ合金の制作が楽なのは、通常バーナーの炎では絶対に解けず熱伝導率も低いので、下手な人でもオシャカにすることはないからだ。ヤスリがけや仕上げに関しても、柔らか過ぎて角がだれてしまう銀よりプラチナの方が、きっちりと仕上げられる。さらにプラチナ合金は火肌がつきにくく、裏まで完全に仕上げてからロー付けできる点でも仕事が楽だ。
以上の理由で、本物と見分けがつかないほど精緻な銀のティアラを作ることは不可能だ。さらに決定的なのは、安価な偽ダイヤでは写真でも、すぐにバレてしまうことだ。
今、中国あたりで合成ダイヤが盛んに作られ世界に流通している。合成ダイヤの値段は本物の半分ほどだ。しかし、本物と同じ旧カットを特注するとなると、本物より高いダイヤになってしまうだろう。
名前は合成ダイヤだが、本物と同じく炭素を高加熱高圧縮して作られ、本物ダイヤと肉眼で見分けることは不可能だ。現在は天然物にないごく微量の元素を測ることで判別している。しかし、技術の向上により、全く見分けができない合成ダイヤが間もなく出現するはずだ。
先日、散歩道に自生しているツワブキの産毛に覆われた新芽を摘んだ。
帰宅してアクで指先を茶色に染めながら皮を剥ぎ、甘辛く煮付け、花カツオをかけて食べた。春の香りが口いっぱいに広がり、とても美味しかった。
子供の頃、今の季節になると裏山へ出かけ、ツワブキを山のように採って来た。
夜は一家総出で皮剥きをした。子供たちはツワブキの首飾りやメガネを作って騒ぎながら、皮を剥いた。そのあと、母がさつま揚げや生節と甘辛く煮付けてくれた。余ったツワブキは佃煮にした。こちらもとても美味しかった。
我が家は、終戦直後の私の誕生日前に、北九州からその漁師町に引っ越してきた。
母が親しくしていたその町の人から「コメはないけど、それ以外は、魚でも野菜でも、いくらでも安く手に入るから」と熱心に誘われたからだ。母は戦前からその町を幾度も遊びに訪ねているので抵抗はなかった。しかし、父は嫌だったようで、北九州に残って仕事を続け、4,5年遅れてやって来た。
我が家はよそ者だったが、その町でよそ者として嫌な目には会ったことは一度もなかった。むしろ逆に、父が事業で失敗しては、町の人に迷惑をかけ続けたほどだ。
最近、田舎暮らしに憧れ、退職金をはたいて都会からに引っ越す人が多い。
しかし、考え方の小さな相違から陰湿な村八分に会い、都会へ舞い戻るケースが多い。
それは引っ越先の農村漁村の違いかもしれない。漁師たちは基本的に合理的で個人主義だ。だから、ある意味、都会人と相性が良い。南の島に移住した都会人が、うまく行っているケースが多いのは、海に囲まれた漁民的な気風のおかげだろう。その点、農村は集団主義で保守的で一人突出することを嫌い、些細なことで村八分が起きやすい。
以前、秩父の友人の別荘を訪ねた時、途中の道端に生えていたカラスノエンドウの新芽を摘んでいた時のことだ。
遠くの家からの地元女性の不審げな視線を感じた。
「何か?」と、大声で聞くと、
「その土地の持ち主の許可をもらったのか」と彼女は言いながら家の中へ隠れた。
「それは申し訳ない」と大声で答え、早々にその場を離れた。
その後、田舎の土地は道端であっても全て持ち主がいて、たとえ道に落ちている木の実であっても拾ってはならないと、田舎暮らしを始めた人から聞いた。そんな些細なことが村八分のきっかけになる。その点、東京は気楽だ。私が野草を摘む荒川土手などは全て公有地で、誰でも自由に楽しめる。
地方の過疎化が問題になっているが、保守的な気風を変えないと、過疎化解消は難しいかもしれない。
山の動物会議
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