去年始めに放映されたEテレ「宮澤賢治・銀河への旅-慟哭の愛と祈り」を再生した。コロナ禍の憂鬱な世相の中、賢治の言葉に不思議な励ましを感じた。令和2年9月27日
涼しい雨が続き、蝉の声が全く聞こえなくなった。
荒川土手には彼岸花が、まるで小学生の整列のように可愛いく咲きそろっている。
最近、連ドラの「エール」を見始めた。たまたま、ドラマのモデル古関裕而の曲が番組から流れてきたからだ。彼の曲には子供時代から深く馴染んでいた。南九州の郷里には戦中の気風が色濃く残り、子供たちは彼の軍歌をよく口ずさんでいた。
「鐘の鳴る丘」の「緑の丘の赤い屋根・・」の歌詞にはエキゾチックな憧憬を抱いた。それが戦災孤児の孤児院の歌と知ったのは後年のことだ。
一番懐かしいテーマ曲はNHK長寿ラジオ番組「昼のいこい」と、13年前に終了した日曜夜の名作劇場だ。森繁久彌と加藤道子の名コンビで、そのテーマ曲が始まると胸がときめいた。
「昼のいこい」は今も続いている。テーマ曲をバックに「〇〇農事通信員からの報告によりますと・・」から始まるスタイルは子供の頃と変わらない。子供の頃の夏休みや冬休み、お昼にラジオから流れていたこの曲を聞くと、一気に子供時代へ記憶が遡る。
涼しくなると、いつものように厳しい現実が見え始める。殊に、これから先の生活が全く見えないコロナ禍の今年は不安感が強い。そのような憂鬱さは社会に横溢して、8・9月の自殺者が急増した。芸能界でも、三浦春馬、芦名星、藤木孝、竹内結子、と人気役者さんたちが自殺した。
そのような世相を振り払うように、去年始めに録画したEテレの「宮澤賢治 銀河への旅-慟哭の愛と祈り」を見た。内容は、番組がつけた題名より「慟哭の修羅」とした方がぴったりする。
賢治の詩や日記には、文学主流から外れた唐十郎や寺山修司などと共通するアウトサイダーが持つ不思議な力がある。それらは、憂鬱な世相を生き抜く励ましにも思える。
賢治の作品の多くは絵本化されている。私が昔関わていたパロル舎の代表作品は賢治の絵本だった。絵は高く評価されていた小林敏也氏が担当していたので、私の出番は全くなかったが、自分なりにどう絵をつけるか、時折イメージしていた。
賢治の中で一番魅力を感じたのは「風の又三郎」だ。これは子供の頃、最初に接した物語で、世界観が子供時代の実生活に近かった。しかし、代表作の「銀河鉄道の夜」はジョバンニのカンパレルナへの強い熱情が理解できず、美少年カンパレルナは描けても、ジョバンニの心には迫れないと思った。
賢治の世界として、昔、山猫を描いた。
気に入らない箇所があり、まだ未完成だ。
番組では、「銀河鉄道の夜」には、プラトニックに強く愛した同窓生の保坂嘉内への想いがあるとして、丹念に掘り下げていた。
賢治は花巻の裕福な商家に明治29年生まれ、大正四年に盛岡高等農林学校に優秀な成績で入学した。
賢治20歳の時、賢治が盛岡高等農林学校の自啓寮室長をしている時、同じ20歳の保坂嘉内が1年遅れで山梨から転入してきた。
嘉内は山梨の裕福な地主の家に生まれた。甲府中学弁論部の頃からトルストイに心酔し自己犠牲を信条としていた。賢治は思想的に早熟な彼から大きな影響を受けた。
郷里宮崎には、トルストイの影響を受けた武者小路実篤の「新しき村」がある。私が番組に懐かしさを覚えたのは、トルストイに触れていたからかもしれない。
嘉内は自啓寮の例年行事のために、3日で戯曲「人間の悶え」を書いた。登場する赤い人と黒い人は嘉内と賢治が演じた。嘉内が扮した赤い人は「風の又三郎」の転校してきた都会的な男の子の容姿のモデルになっている。東北では広く「風の又三郎」が信じられていた。嘉内が親しんだ八ヶ岳山麓にも風の三郎を祀った石の祠があり、嘉内のスケッチが残されている。
二人が出会って間もなく、岩手山を二人で登山した夜のことを、後年、賢治は幾度も幾度も想い返し、去って行った保坂嘉内への手紙で「私の友保坂嘉内、我を棄てるな」と熱い血を溢れさせるように繰り返している。賢治のこの一途さには驚嘆するほどだ。当時の夜行登山における明かりは松明だった。消えかけた松明に、二人はほお寄せ合って息を吹きかけた。
柏ばら ほのほたえたるたいまつを
ふたりかたみに 吹きてありけり
賢治が残した歌だ。岩手山の夜行登山の時、賢治と嘉内は、生涯を農民に尽くそうと熱く語り合った。嘉内と賢治は深い友情で結ばれたが、嘉内の作品や理想主義的な言動は盛岡高等農林学校で不敬罪に当たると疑われ彼は退学した。彼はその後職業軍人を目指しているので、学校の判断は誤っていたようだ。
3年後、上京して仏教を学んでいた賢治は、上野帝国図書館で一度だけ嘉内と再会した。賢治の日記には、嘉内はガラスの腰蓑をつけた不思議な姿に描かれている。その時、賢治は嘉内が遠い存在になったと感じたようだ。二人が直接出会ったのはそれが最後になった。
「銀河鉄道の夜」の終わりのシーンで、終点のサザンクロス駅へ向かう途中に赤い腕木の電柱が並んで立つ美しい野原がある。そこでカンパレルナは突然に消えて、ジョバンニは激しく慟哭した。その美しい野原は、嘉内との思い出の岩手山が見える外山高原がモデルだった。賢治は嘉内とともに、その高原に開拓農民として入植することを夢見ていた。
銀河鉄道の夜のカンパレルナの死は、賢治の早世した妹とし子が影響したと私は思っている。
戦前、ハレー彗星が現れた時、日本全土は雲に覆われ観測できなかったが、嘉内が住む山梨の一部では観測された。その時、嘉内がスケッチした彗星の絵を賢治に見せている。「銀河鉄道の夜」の銀河にも嘉内からの影響を濃く感じる。
番組で保坂と賢治の電柱の絵が紹介されていたが、賢治の電柱の方が表現力豊かだった。芥川なども良いスケッチを残しているが、一流の作家は、絵の表現も素晴らしい。
嘉内は大正十四年、結婚して2男1女をもうけた。
昭和8年9月、賢治は37歳で結核で死んだ。嘉内は昭和12年2月、41歳でガン死した。その時、嘉内の枕元には、無名時代の賢治からもらった73通の手紙の束が置かれていた。嘉内は賢治の想いには応えられなかったが、強い友情は最後まで大切にしていたようだ。賢治から嘉内への手紙は山梨県立文学館に残されている。
賢治は同性への恋を、終生、修羅の心として悩んでいた。
賢治の詩「春と修羅」は以下の言葉から始まる。
心象の はいいろはがねから
あけびのつるは くもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんの いちめんの諂曲模様・・・
いかりのにがさ また青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしり ゆききする
おれはひとりの修羅なのだ・・・
詩には、彼のほのぼのとした童話世界とは異質の、寒風に吹きさらされた孤独が垣間見える。
番組では初夏の東北の高原での伝統的な剣舞を背景にその詩が朗読された。
コロナ禍の不透明な日々の中で聞く賢治の言葉には、不思議な魅力がある。
番組を見てしばらくして、親しい編集者と話した。
「ジョバンニとカンパレルナの発想に、賢治のボーイズラブがあったんですね」と話すと「知らなかったのですか」と笑われた。研究者の間では広く知られていたことだが、賢治作品に対する誤解を生まないように一般的な評論では控えられているようだ。
「銀河鉄道の夜」は優れた作品だ。だからこそ、「銀河鉄道」のイメージは世間に広く行き渡り、松本零士の「銀河鉄道999」などに多大な影響を残したのだろう。
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