昭和レトロ、都営桐ヶ丘団地商店街。令和2年11月20日
昭和レトロがブームで、都営桐ヶ丘団地の中央商店街が注目されている。
25年前まで、その近くに住んでいて、時折買い物へ行った。
以下の写真は10年前のものだ。
最近は散歩コースが変わったので、行っていない。
すぐ近くに赤羽自然観察公園がある。
昭和末期までは、この広場は買い物客や子供達で賑わっていたが、平成に入ってからこの状態になった。
左手前は残留孤児がやっていた中華総菜店。
店先のテーブルで主人が餃子作りをしていた。
総菜店の手前は肉屋で、若いイラン人店員が楽しそうに働いていたが、この写真の頃はなくなっていた。
買い物広場から大通り方面の5階建住宅を見る。
その1階も商店街になっている。
おもちゃ屋。滅多にお客の姿は見ない。
老齢化した桐ヶ丘団地では、時折遊びに来る孫たちが賓客だ。
大通りの商店街。
この頃までは小さなスーパーや信用金庫の支店があった。
普段、私が使っていたのは隣の赤羽台団地の商店街だったが、そこの花屋には榊がなかった。
それで榊を新しくする日は、この通りの花屋を利用していた。
桐ヶ丘団地の商店街は年寄り用の品が豊富で、価格も安かった。
ある年、花屋は店の一角でカキ氷を始めた。
どうして異業種をと怪訝に思ったが、その頃、経営は相当に悪化していたようだ。
それから間もなく店は消えた。
バブルの頃は、この写真の奥の方に、ペルシャ絨毯の店があった。
1枚数百万の絨毯が、こんな場末で売れるとは思えなかった。
いつもイラン人店主が手持ち無沙汰にぼんやり外を見ている、本当に不思議な店だった。
バブルがはじけて2,3年後に、その店はなくなった。
商店街の外れ。右手は団地。4階ほどの低層の建物が広がっている。
この通りに面して飲食店がポツポツと残っている。
この手前に商店街広場への入り口があり、昔風の八百屋があった。
店は老いた母と息子が切り盛りしていた。
野菜は安かった。
店前の大きな樽に水を満たし、元気がなくなった野菜を浸けて生き返らせていた。
私も真似て、冷蔵庫の小松菜などが元気がなくなると、冷水に浸けて生き返らせた。
昔の八百屋は、そのような様々な専門技術を持っていた。
しかし、経営は厳しく、間もなく母子は店をたたんでいなくなった。
バブルが終わって間もなく、この通りの一角に老夫婦が屋台を出した。
売っていたのは、クレープ風の薄焼きにソースを塗り、キャベツを挟んだだけの素朴な食べ物だ。
値段は20円ほどと安かった。
クレープを焼く禿げ頭にねじり鉢巻の夫の傍らで、老妻が甲斐甲斐しく働いていた。
老いても公に頼らず、自立しようとする姿勢が胸を打った。
しかし、今の子供に素朴な食べ物は受けず、2ケ月ほどで撤退した。
今も一生懸命自立しようとしていた老夫婦の姿が、昭和の残照のように心に残っている。
錆びてガラクタに見えるが、10円を入れると5分ほどちゃんと動く現役だ。
昭和のものは実に頑丈に作られている。
時折、年寄りに連れられた小さな子供が楽しんでいる。
店は廃墟みたいだが、併設された住居の家賃は安く、都心に近くて住みやすい。
昭和40年あたりのビンテージものが手に入る。
古い商品を探している方には穴場かもしれない。
一度、この寝具店で母に頼まれ、木綿の穴糸を買ったことがある。
暗い蛍光灯の店内に入ってなんども声をかけていると、客の来訪に驚いたような初老の主人が現れた。
商売をしなくてもなんとか生活できるのかもしれない。
買った穴糸の包装は古びていたが品質は問題なかった。
賑やかな頃の桐ヶ丘商店街も何度も訪ねたが、
当時は東京のどこにでもある普通の商店街だったので、写真は撮っていない。
その頃、主に買い物に行っていたのは赤羽台団地の商店街と、桐ヶ丘団地の生協と公設市場だった。
まず、公設市場が消え、次に赤羽台団地は建替えられ、商店街の代わりにスーパーができた。
生協は大きな組織なので今も残っている。
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「感染爆発を抑えるために、五つの"小"に気をつけましょう」
陽性者が500人を越えた日に都知事が話していた。
ぼんやり聞いていたので、五つの注意事項がどうしても思い出せない。
小学生、小便、小言、小骨、小池百合子、と小さなものが思い浮かんだだけだ。
厄介事では共通しているが、彼女が言ったのはそれではない。
「要は人にうつさなければ良いだけのこと」
と、思いながら、小豆、小悪魔、小百合、小包・・・と連想が止まらなくなった。
全身ガンで倒れた高須クリニックの高須克弥院長が「楽しい人生だった」とツイートしていた。
若い高須氏とポール・マッカートニーが肩に手をい置いている写真、クイーンの故フレディ・マーキュリーが寄り添う写真、シルベスター・スタローンと握手する写真、綺羅星のように若い頃の画像が添付されていた。
フォロワーからは、
「まだまだ楽しいこと待ってますよ」
などと励ましの言葉が多数、届いていた。
高須氏より私は7日早く生まれた。
星占いなどの運勢はほぼ同じはずだが、境遇は月とスッポンほど違う。
しかし、彼は今は寝たっきりになり「疲労困憊して、辛くて起き上がれない」と呟いていた。
多くの末期癌の知人を見送って来たので、彼の辛さが本当に胸に迫る。
そのような彼と比べたら、どんなに貧乏でも毎日散歩へ出かけ、仕事ができる自分は恵まれている。
しみじみと、人生を振り返りながら、ぼんやりテレビを見ていると、
「元気な今を大切に、時間を無駄にするな」と、
彼に言われたような気がした。
彼と同じように「楽しい人生だった」と、過去を思い返す。
40歳までは自分の気持ちを制御できず、ギクシャグした人生だった。
しかし、40歳を過ぎてからはとても生きやすくなって、人生が最高に楽しくなった。
それでもいずれ、高須氏と同じように死が身近になる。
だから、人のことを同情できる立場ではない。
毎日、連ドラの「エール」を見ている。
平成の役者さんたちが、実に上手く昭和の雰囲気を醸し出していることに感心している。
時折、ドラマのモデルになった古関裕而の名曲が流れるのが楽しみだ。
「エール」を見るまで、それらが彼の作品とは知らなかった。
「鐘の鳴る丘」「君の名は」どのメロディを聴いても、一瞬で昭和20年代の世界に引き入れられてしまう。
毎夜、布団に入ってから映画版の「君の名は」を見ている。
背景の風景も人々の物腰もすべてが懐かしく、胸が熱くなる。
NHKのラジオドラマ「君の名は」は小学校低学年だったので恋物語には興味がなかった。
しかし、ドラマの出だしのテーマ曲と台詞、
「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」はよく覚えている。
高学年なってから、「O脚とは忘れ去ることなり。忘れ得ずしてO脚を思い出す心の悲しさよ」などと言い変えて、みんなでゲラゲラ笑い転げていた。
映画版「君の名は」北海道編を、当時中学生だった姉に連れられて隣町の油津で見た。
その姉は母の死の前年2009年に死んだ。
主人公は真知子役の岸恵子と後宮春樹役の佐田啓二。
佐田啓二は若くして交通事故死したが、遺児の中井貴一は役者として大成した。
挿入歌の「黒百合は恋の花」やアイヌ語の「ピリカメノコ」はこの映画で知った。
すれ違いの恋など、子供が興味を持つわけがないが、娯楽が少ない時代だ。
映画に連れて行くと言われたら、どんな映画でも喜んで見ていた。
北海道編では、原野を馬車で進む、エキゾチックなアイヌの美少女を記憶している。
そのシーンで、「ドンガラガッチャ♫ドンガラガッチャ♫黒百合は恋の花♫」と強烈な歌が朗々と流れた。
そのアイヌ娘を演じていたのは、後年石原裕次郎の妻になった北原三枝だ。
「君の名は」も「黒百合の歌」も「イヨマンテの歌」も、全て古関裕而作曲の名曲だ。
本当に偉大な作家だと、改めて思っている。
その頃近所に、高学年の春樹というとてもおとなしい男の子が住んでいた。
悪童だった私たちは「春樹と真知子」と囃し立てて喜んでいた。
どれも、懐かしい昭和の思い出だ。
いつの間にか、私自身が昭和レトロ化してしまったようだ。
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