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2020年12月13日 (日)

昭和レトロ・パート3-続赤羽台団地、40年前の散歩コース風景。令和2年12月13日

赤羽に引っ越してきたのは昭和48年。
当時は赤羽-池袋の赤羽線を羊羹色の古い電車が往復していた。
赤羽台団地がある赤羽駅西口は小さな駅舎だった。
西口を出て右へ線路沿いに少し行くと、左手に赤羽台団地へ上る急坂があった。
急坂には滑り止めにドーナツ型に円形の凹みが多数つけられていたので、姪たちは「マルの坂」と呼んでいた。正式名称は「大坂」だ。
坂道を少し行くと左手に映画館があった。1階は赤羽東映劇場。二階はオデヲン座。母は幼い姪たちが遊びに来ると、よく映画館へ連れて行っていた。映画館は今は、ホテルに建て替えられている。

坂道では、様々な露店が出てはすぐに消えた。
印象に残っているのは、魚の干物や粕漬けやシジミ等を売っていた脱サラしたらしい中年男性だ。彼は色白でサラリーマン臭さが抜けず、自信なさげで苦戦していた。しかし、2,3年風雪に晒されて逞しさが出ると、商売は安定した。商品を並べた硝子蓋付きの木箱は丹念に磨き込まれ、いつも清潔感があった。
「他より少し高いけど、品は良いの」
母はそう言って、時折、西京漬などを買っていた。
20年ほど過ぎてバブルが始まった頃、彼は突然に露店を閉めた。
バブルで活気があふれていた時代だ。資金ができて、どこかにお店を出したのだろうと思った。

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坂道を上りきると赤羽台団地。
左手公園に庚申塚の祠があった。
近隣のお年寄りたちが自主管理し、大晦日にはお神酒が振る舞われ、先着100人に新年干支の絵馬が配られた。今も我が家にはイノシシの絵馬が残っている。

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庚申塚祠のさらに左手の桜並木。
ピンク色の強いサトザクラで、ソメイヨシノより遅れて満開となる。
色が強過ぎてさほど人気はなく、花見客はほとんどいなかった。
当時は、この道を進んでいくと広大な自衛隊駐屯地があった。
今は自衛隊駐屯地は都に委譲され、赤羽自然観察公園に作り変えられている。

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最初の画像の道を少し歩いて右折したあたり。
コダックのトライXを使用。当時はカラーより白黒を使うことが多かった。

この道は通勤時間にはとても混雑した。この道を直進すると、私が住んでいた赤羽台3丁目に至る。
左手公園は後年掘り返され、赤羽駅から八幡小学校方面へ抜ける赤羽台トンネルが建設された。
中央の可愛い男の子は、今は熟年に達しているはずだ。
トンネル開通と同時に、駅への近道の階段が新設され、それまでの通勤路マルの坂は寂れた。

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上記画像を抜けると現れる、赤羽台団地のメイン大通りの西方向。
右手芝生の更に右に商店街がある。
母も私も、毎日のようにこの商店街で買い物をしていた。

この大通り奥の住棟1階の赤い看板は三菱銀行赤羽台出張所。当時、私はそこを利用していた。いつも空いていて待ち時間はほとんどなく、明るくて気持ちの良い支店だった。客の案内係をしていた支店長は山好きな人で、時折、のんびりと山の話などをした。
この頃は絵描きに転職する前で、収入は安定していた。
無駄遣いは多かったのに、毎月お金が貯まる一方だった。

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商店街は左手の高層住棟1階外側の通りに沿ってあった。
商店街の中央あたりから住棟を抜けると、四方を高層住棟に囲まれたこの広場に出た。この城壁構造の広場は、大震災など非常時の安全な避難場所を確保するためのものだ。簡単な遊具や、芝生や薔薇庭園があったが、当時も人影は少なかった。
しかし、団地祭りや盆踊りの時は、自治会運営の露店が並び、団塊の世代の子供達で賑わった。
団地商店街裏の広場側は商品搬入に使われていた。

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避難広場を抜け、住棟1階の郵便局脇をくぐり抜けた辺り。
左手住棟手前に赤羽台診療所の看板が見える。
奥のかすかな赤い旗らしきものは郵便局の目印。
中央遠景は団地のロボットみたいな給水塔。
その右に小さく見えるのは都営桐ヶ丘団地の給水塔。

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団地を北西に抜け出ると、この写真の旧板橋宿街道の坂道上部に出て風景が開ける。
写真奥へ下って行くと八幡神社から赤羽駅へ至る。
左へ下ると都営桐ヶ丘に至る。
昔は板橋宿街道は追い剥ぎが出そうなくらい寂しい道だった。当時聞いた古老の話では、この道を手前に赤羽台西端まで行くとススキの原があってとても寂しい場所だったようだ。
左手塀は八幡小学校の運動場で、今も同じ姿のままだ。
右手は旧赤羽台中学校。今は廃校になって東洋大に買収され、大学の新校舎が建っている。
我が家は左横断歩道を手前へ進み、少し降って左折した路地奥にあった。

このカラー写真は著しく退色して、ぼんやりしていた。幾度も捨てようと思ったが、なんとなく止めた。ブログに掲載にあたり、スキャンして画像処理をしたら、この新鮮な画像が現れた。それは、消えた過去が突然に蘇ったような感動だった。
この写真中央の中学校の塀の下あたりに国際興業のバス停がある。この写真を見ると、母がバス待ちをしていた姿を懐かしく思い出す。当時はシルバーパスが都から支給されて、母は浅草の手芸材料店や銀座までバスを乗り継いで出かけていた。

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団地西端にある「あかいとり幼稚園」。右手前には赤羽台西小学校。
この道を奥へ進み、右手の坂を下ると赤羽駅に至る。

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建て替え前の公務員住宅。
赤羽台団地西端の赤羽台西小学校の近くにある。
道奥に、赤羽駅から旧軍施設への引き込み線のレールが10mほど、アスファルトに埋もれて残っていた。

公務員住宅の手前左方向に、自衛隊駐屯地へ下る階段がある。私はこのコースを辿って、しばしば十条の知人を訪ねていた。駐屯地脇の坂を上ると西が丘の住宅地。広い敷地の家が多く、北区の高級住宅地だった。赤羽の大地は地盤が安定していて、関東大震災でも被害が少なく、湯島の遠縁の親戚は、震災後しばらくこの辺りの寺へ避難していた。台地には弥生時代の遺跡や古墳が多い。太田道灌は赤羽駅近くの台地に広大な稲付城を構えていた。

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前写真の公務員住宅の家庭菜園と花畑。
薄茶色に著しく退色していたが、画像処理したらこの画像が現れた。
左手に崖があり、崖下の窪地に自衛隊駐屯地があった。
公務員住宅はバブル期に豪華な住棟に建て替えられ、この風景はなくなった。
崖下の起伏のある自衛隊敷地は赤羽自然観察公園に作り変えられ、今は公園の樹木は大きく育った。
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一生のうち、人生観を変えるのほどの出来事は幾度かある。
その一つが今回のコロナ禍だろう。
とは言え、100年前の第一次世界大戦の死者を上回ったスペイン風邪と比べると、実害は小さい。スペイン風邪の死者は若者が多く、その結果、大戦の終結が早まった。今回のパンデミックの死者は、人生をリタイアした老人たちに集中している。もし、老齢人口が少ない100年前だったら、少しタチの悪い風邪が流行っている程度の受け止め方だっただろう。
日本でのコロナ禍が起きた原因は、過剰な情報と厳格なPCR検査によるものだ。そのため、飲食、観光、エンターメント業界が深刻なダメージを受けてしまった。ニューヨークのブロードウエイなど、ワクチン効果が出始める来年5月まで閉鎖が続きそうだ。

華やかに進化を続けていた日本の食文化は、コロナ禍を界に衰退してしまった。
先日、コロナ禍前の観光地や食文化を海外に紹介する動画を、ぼんやり見続けた。インバウンドによる観光地の賑わい。飲食店で料理を楽しむ人たち。ほんの1年前の姿が、遠い世界になってしまった。
コロナ禍によって、二度と元に戻らない職種が数多くある。
資金のない個人営業の飲食店の再起はほとんど不可能だ。四谷の飲食店で働いていた姉も、先週に失職してしまった。姉は高齢なので、コロナ禍がなくてもいずれ失職してしまうが、多大な損失を被った経営者の失意は姉の比ではない。

コロナ禍によって前倒しで進んだテレワークは、これからも止まることはない。多くのサラリーマンたちは、長い在宅勤務を経験して家族の大切さを再認識した。遠距離通勤して事務処理をし、無意味な会議を開き、新橋あたりで飲んで帰る。彼らは、コロナ禍前の当たり前だった日常に疑問を感じ始めている。

新型コロナに類似したウイルスは多くある。その一つは軽い鼻風邪を起こす。仮説だが、鼻風邪に罹りやすい人は交差免疫により新型コロナにかかりにくい。BCG接種で得られる交差免疫も同様だ。
もう一つの仮説に、それぞれが気をつけているなら、社会的に自粛規制をしようとしまいと、新型コロナの自然収束のスピードは変わらない、との説がある。それは、三密の東京と過疎の地方の感染者数変化曲線がほとんど変わらないことがそれを示しているようだ。

ちなみに、感染状況を示す実行再生産指数は12月11日現在、増減の閾値1に極めて近い1,05だ。この世の終わりみたいに煽り続けるマスコミや医療関係者たちに対して、国民は冷静に対応すべきだ。煽りすぎると、オオカミ少年になって効果はなくなる。「角を矯めて牛を殺す=曲がった角を叩いて、真っ直ぐにしようとしたら牛が死んでしまった」の諺もある。

pcのモニターが壊れて、画面右端に虹色の乱れがチラチラし始めた。そのモニターは10年間、酷使したので壊れても仕方がない。人の体なら自分で修復するが、機械では無理だ。それで、意を決してモニターを新調した。
旧モニターは光電管バックライト最後の機種でブルーライトが少なかった。今回はLEDバックライトなので画面がきつく、ブルーライトが100倍は強い。その対策にブルーライトカットメガネを買った。装着すると目の疲れは少なくなったように感じる。

コメディアンの小松政夫氏が肝細胞癌で亡くなった。
去年だったが偶然に彼の「電線音頭」を見た。
コロナ禍に沈滞した今こそ、無性にあのドンチャン騒ぎをしたい。
あの大騒ぎこそ、世間が待ち望んでいることだ。

昭和の芸は単純で熱気があって楽しかった。思い返すと、昭和の貧乏コントも面白かった。それは、昭和の日本人が、貧乏に打ちひしがれていなかったからかもしれない。今の芸人は文化人志向が強く、内輪受けばかりで、ひ弱に感じる。高度な笑いを取ろうとするので、クスリと笑うことはあっても、腹を抱えての爆笑はなくなった。
「心から小松政夫氏のご冥福を祈っています」

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