« 酉の市、コロナ禍に憂深し。アメ横で、若返り効果があるシナモンパウダーを買った。令和2年11月27日 | トップページ | 昭和レトロ・パート3-続赤羽台団地、40年前の散歩コース風景。令和2年12月13日 »

2020年12月 3日 (木)

昭和レトロ・パート2-赤羽台団地のユニークな公園の遊具と駐車場。令和2年12月3日

旧赤羽台団地は建替中だ。
団地は昭和37年、赤羽駅近くの広大な台地に日本住宅公団(現UR都市機構)により建設された3,373戸の大団地だ。それまでの平行配置の常識を覆し、7階建高層棟にスターハウスなどを組み合わせ、直交配置、中央に公園を設けた囲み型など、バラエティ豊かな配置がなされていた。敷地内に教育施設、商店街、郵便局、診療所や集会所などの生活利便施設が設けられ、公園は豊かに樹木が植栽されていた。共有スペースは、子供たちだけでなく、大人たちの憩いとコミュニティの場を目指していた。私は団地外に住んでいたが、毎日のように団地商店街を利用し、帰りは共有スペースでくつろいだ。
団地商店街で八百屋をやっていた知人は、都内の奉公先から高崎線で帰省する時、車窓の団地を見上げながら、絶対にここで開業すると決意したと話していた。彼の八百屋は若い人を二人雇うほど繁盛していたが、平成に入ると少子高齢化による客の減少により衰退してしまった。今の建て替えられた団地には個人商店が消え、団地外れにありふれたスーパーがあるだけだ。
旧団地は建設から60年近くを経て、中層住棟の敷地には樹木が大きく育ち、まるでヨーロッパあたり住宅地のような落ち着きが出ていた。今は箱型の味気ない高層住宅が並ぶ、ありふれた団地に変化してしまった。

私が旧団地近くに引っ越して来たのは昭和48年。
団地は若い家族で満杯で、有名人もたくさん住んでいてた。一度、NHKの名物アナ山川静夫氏を見かけたことがあった。芸能人では平幹二朗氏がこの団地で母親と暮らしていた。当時の団地は生活・知的レベルも高かった。
昭和50年代まで団地祭りが盛んだった。お盆の頃は、高層住棟に囲まれた広場で盆踊りが賑やかに催された。団地自治会の露店の並ぶ夜の広場には団塊の世代の子供たちが溢れ、今も、盆踊りの音頭や提灯飾りを夢のように思い出す。

土日には幼かった姪たちが、団地近くの我が家に泊りがけで遊びに来ていた。
彼女たちを団地の公園へ連れて行くと、設置されたユニークな遊具を楽しんでいた。
当時は珍しいと思わなかったが、それらが消えた今は、もっと多く写真を撮っておけばよかったと後悔している。
M_0a

建て替え中の団地と公園。
奥の高層は建て替えられた新住棟で、手前が旧住棟。
公園のこんもりしたのはufo型の滑り台。
M_0b

星型に作られた珍しい旧住棟。立ち退いて誰も住んでいない。
旧公園の遊具。樹木がのびのびと育ってとても気持ちがいいが、この風景はすぐに消えてしまう。
M_3_20201203182401

公園のアップ。
姪たちはクラゲのような滑り台で飽きずに遊んでいた。
M_1_20201203182401

豚の置物。
ペンキが塗られていたが、長年の風雪で剥げて色はわからなくなっていた。M_2_20201203182401

リスの置物。
子供たちはまたがったり、腹の下をくぐり抜けたりして遊んでいた。M_4_20201203182401

団地はずれの公園。
亀と子供二人とウサギの不思議な取り合わせ。
寂しい場所なので、子供達を見かけることは少なかった。
すぐ近くの夏みかんの木はたくさん実ったが、酸っぱいので誰も採る人はいなかった。
一度だけポン酢用に採って来たことがあるが、水分が少なく、大きな実から僅かしか絞れなかった。M_5_20201203182401

シロクマ2頭と顔と角が欠けたキリン。M_a

不思議な円形の駐車場。
他の車を避けずに車を出し入れできて便利だが、土地効率は悪い。
まだ自家用車が極めて少なかった昭和30年代の発想だ。
私は「空飛ぶ円盤の基地」と呼んでいた。M_b

グーグル地図の航空写真で調べたら今も表示されている。
周りの住棟は誰も住んでいないので、停車している車は工事関係者のものだろう。

赤羽台台地の一角には戦前まで陸軍被服本廠があったが、戦後は米軍に接収された。
私より少し年長の知人から、朝鮮動乱の頃は米軍修理工場で昼夜なく戦車などの修理が行われ、轟音と共に溶接の光が花火のように見えた、と聞いた。
米軍基地は昭和34年に日本へに返還され、陸上自衛隊十条駐屯地となった。
私が赤羽に引っ越してきた昭和48年あたりは、敷地に自衛隊のキャタピラ付きの軍用車が保管されていた。起伏を設けられた敷地では、時折、戦車などの試運転がされていた。敷地の一角には機関砲などの試射をする壕があった。試射の日には旗が立てられ、地中からカタカタと乾いた発射音が聞こえた。

陸上自衛隊十条駐屯地の一部は都に返還され1999年4月1日に赤羽自然観察公園整備されて開園した。
2002年、腰痛のため車椅子になった母を、リハビリのために毎日、その公園に連れて行った。
母は2010年に97歳で死んだが、その半年前まで、夏冬なく、雪の日も雨の日も休むことなく連れて行った。自然の癒し効果は大きく、具合が悪い時でも、公園へ連れて行くと空気が美味しいと母は元気になってくれた。私は自然豊かな南九州で育った。皮肉なことに、四季の変化の素晴らしさを発見したのはその公園だった。M_6_20201203232101

昭和50年代の銀塩写真をスキャンした。
右手は法善寺の墓地。
引っ越して来た頃まで、中央の荒れた空間に赤羽駅から敷設された陸軍被服本への引き込み線が残っていた。
赤錆びた鉄路は近所の子供たちの格好な遊び場で、いつも賑わっていた。
この駐車場代わりの空き地は、緑道公園に作り変えられ、今は樹木が気持ちよく成長している。
中央奥の巨大なロボットみたいな塔は旧赤羽台団地の給水塔。
その近くの公務員宿舎が今の瀟洒な高層に建て替えられるまで、宿舎前のアスファルト広場に埋もれるように鉄道レールが残っていた。空き地から突然現れ、宿舎敷地に消えるレールはとても不思議な光景だった。

朝鮮動乱の頃は、引き込み線は昼夜なく稼働していた。
子供だった知人たちは米軍基地で機関銃の薬莢を拾って、スクラップ屋に売って小遣い稼ぎをしていた。金編景気で非鉄金属は高額で売れた。
引き込み線近くに昔から住んでいる知人によると、給水塔のあるあたりに簡素な修理工場専用の駅があったようだ。

赤羽には鈴木産業と呼ばれた大きなスクラップ屋があった。
そこが朝鮮動乱の頃、米軍戦車の解体を請け負った時、酸素溶断を試みたが一部の箇所は全く切れなかった。その時初めて、米軍戦車には高価なステンレスが使われていたことを知った。
「これではアメリカには勝てない」と、古い社員から聞いたことがある。
鈴木産業の金属廃材が山積みされた広い敷地は、バブルの頃にビルが建てられて消えた。

赤羽は戦前は軍都として栄えたが、貧乏絵描きも多かった。
当時、池袋にはアトリエつきアパート「池袋モンパルナス」が多く建てられた。
そこに住めない貧乏絵描きたちは赤羽に多く住み着いた。
その名残で、絵画教室などで糊塗をしのいでいる絵描きが今も多く赤羽で暮らしている。
私が赤羽から離れないのは、その住みやすさのせいだ。

Ma_3

Ma_4

Ma_5

Mas

|

« 酉の市、コロナ禍に憂深し。アメ横で、若返り効果があるシナモンパウダーを買った。令和2年11月27日 | トップページ | 昭和レトロ・パート3-続赤羽台団地、40年前の散歩コース風景。令和2年12月13日 »