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2021年2月15日 (月)

映画「岸辺の旅」は現代の能舞台として深く心に残った。自分で布団の仕立て直しながら死者たちを思い出した。令和3年2月15日

11日建国記念日の昼間、NHKで映画「岸辺の旅」を放映していた。
「岸辺の旅」は、湯本香樹実の小説である。2009年9月号の『文學界』に掲載され、2015年に映画化された。
配役は夫・薮内優介役は浅野忠信。妻・薮内瑞希役は深津絵里。
途中から見たので、最初の導入部は見逃した。

あらすじ・・・病院の歯科で勤務医をしていた夫・優介は突然に失踪した。妻・瑞希はピアノ教師をしながら夫の行方を捜し、帰宅を待っていた。そんな彼女の前に、突然、優介が現われた。
去った頃と変わらない姿の彼は、自分は自殺して死んだ身だと話した。
混乱している妻に、彼は思い出の地をめぐる旅に出ようと誘った。

二人は失踪中に暮らした様々な土地で、すでに死んだ人や、ゆかりの人たちと再会した。
最初に訪ねたのは新聞配達店の島影さん(小松政夫)だった。
すでに死んでいた彼は、孤独に新聞配達を続けていた。
町の人たちに彼の姿は見えなかったが、薮内夫妻にだけには見えていた。
島影さんは優介との再会をとても喜んだ。
夫婦は彼の住む広いビルの一室で暮らし始めた。
映画全編にわたって、二人のベットはなぜか病院の白いベットだ。
作者は白いベットに死を象徴させていたようだ。
物語は島影さんの生死への苦悩を絡ませながら進んだ。そして、糸が切れるように島影さんはあの世へ去った。
その朝、妻・瑞希は滞在していた彼のビルが荒れ果てた廃墟であったことに気づいた。
雨月物語のような設定に、死の儚さを感じた。
この撮影の後に、島影さん役の小松政夫は亡くなっている。だから一層心に響いた。

次は失踪中に優介が働いていた中華料理店を訪ねた。
ここでも優介は大歓迎された。
店の主人夫婦は死者ではなく普通の人だ。
瑞季は居心地の良いその町で、静かに優介と暮らすことを夢見た。
しかし、経営者妻の10歳の妹が、瑞希が弾くピアノをきっかけにあの世から蘇った。
瑞季は生と死の葛藤を受け入れられなくなって、二人はその町を去った。

最後に山村の星谷さんを訪ねた。
優介は村人たちにとても愛されていた。
星谷さんの息子は、失踪して亡くなった。
夫を探しに行った嫁は、死んだ息子ではなく死んだ優介を連れ帰った。
その山村にも安らぎはなかった。
失踪した息子や瑞季の父親が現世に現れ、瑞季は苦しんだ。
優介もまた、現世に戻ったことによる痛みに苦しみ始めた。
それまで、瑞希が体を求めても優介は応じなかった。
しかし、現世での終わりを感じた優介は求めに応じた。
瑞希役・深津絵里の背中の陰影がとても美しかった。
かすかにうごめく肩甲骨に、胸の膨らみや肌の香りを画面から濃厚に感じた。
二人は村を出た。
旅の終わりに、二人は海辺の小さな入江にたどり着いた。
優介はさらに弱っていた。
「離れたくない」
瑞季は切なく彼に願ったが、優介は静かに消えた。

この映画は現代の能舞台だった。
映画の背景は常に朝から黄昏までだったが、死を描くのに自然な時間帯だと思った。
能舞台でも薄暮に亡霊に出会う設定が多い。
死者や亡霊たちを幽玄に描く能の世界は、死を覚悟して生きていた武士たちに愛された。
この作品には、死を納得させる不思議な力があった。

黄昏直前の夕日が長い影を伸ばす時刻に、私は死者を感じる。
大ヒットしたアニメ「君の名は」は、異時空が交錯する黄昏時に、主人公の若者・立花瀧は死んでいないはずの宮水三葉と再会した。物語では、その出会いによって三葉は死を免れ、最後に現世で瀧と再会することになる。

来年に喜寿を迎える私は死が身近となった。
生死の境に暮らしていると、死んだ人たちに親しみを感じる。
母に車椅子散歩をさせていた頃、毎日緑道公園を通って自然公園へ連れて行っていた。その緑道公園の途中に大きな墓地があった。そのあたりに差し掛かると、母が誰もいないベンチに挨拶することがあった。
「誰に挨拶したの」と聞くと「おじいさんが腰掛けていたから」と母は笑顔で答えていた。
母には死んだ人が見えていたようだ。
あの頃の母も、死者たちに親しみを感じていたようだ。

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今日は朝から暖かい雨が続いた。
午後4時半、雨は止んで虹が見えた。
一昨日の土曜夜に、震度4の地震が起きた。東北の大震災の余震で、大きな揺れだった。仙台沖の海底で起きたマグニチュード7.3。今の住まいは以前の住まいより揺れが少ない。それでも1分ほど揺れていた。

昔、来客用と自分用の布団を2組買った。自分用は母と死別した後に捨て、来客用を普段使いにした。その来客用布団も古くなったので、早起きして布団側を剥がし、布団側代わりの無地の布団カバーに羊毛棉を詰めた。
中綿は羊毛だ。買った頃は綿より高価だったが「ダニがつかず、湿気を溜めにくい」と勧められて買った。使ってみると、確かに羊毛綿は頻繁に干さなくても、いつもさらりとして心地よかった。さらに、使い込んで適度に潰れた布団は、今の住まいの小さな押入れにしまうのが簡単だった。

布団側(ふとんがわ)を剥がしてみると、中綿は羊毛の繊維がフエルト状に絡み合って、しっかりと形を保っていた。
羊毛綿がずれないように、四隅や縁を布団針でしっかりと縫い付けた。
布団カバーの代用布団側は大き目でダブダブだったが、さらに布団カバーで覆うことで使いやすくなった。
今の布団は安くて買い替えるのは簡単だが、古い布団は大型ゴミなので始末は大変だ。

母の世代の主婦は、古くなった銘仙の着物などを解いて布団側に仕立てていた。
銘仙を繋いだ布団側は華やかだった。
古い中棉は布団屋へ出して打ち直し、ふっくらと再生させた。
昭和20年代の子供の頃の田舎には、江戸時代からの伝統技術の打ち直し技術を保持している人がいた。作業は大量に綿埃が舞い上がるので、都会の小さな家では難しい。作業をするお婆さんたちは、髪と口元をタオルで覆い、手作りの弓の弦をブルンブルンと弾いて綿を弾いてほぐし、フンワリと生き返らせていた。
今は打ち直して仕立てるより、新品を買ったほうがずっと安い。
さらに、布団を丸ごと洗濯できる大型洗濯機を備えたコインランドリーがあるので、頻繁に洗う人が増えた。だからますます、布団の仕立て直しをする人は少なくなった。

昭和40年代までの主婦たちは、普通に自宅で布団を仕立て直していた。
その頃、私は彫金職人として独り立ちした20代だった。
自分でできない分野の仕事は、専門の職人さんに頼みに行っていた。
私は仕事が仕上がるのを、お茶を飲みながらのんびり待っていた。

5月の爽やかな頃だったと思う。
私の頼んだ仕事をしている主人の斜め後ろの襖が開いていた。
奥の部屋は、明るい陽光が差し込む広い和室だった。
和室では奥さんが、布団棉を広げ、仕立て直しをしていた。
彼女は私より10歳ほど年上の下町育ちだ。
キレのいい下町言葉が、田舎育ちの私には心地よかった。
彼女は短めのスカートで、布団棉を一心に整えていた。
眩しほどにしどけなく、立膝をしたりする彼女に胸が高鳴った。
しかし、仕事をしている主人から彼女は見えなかった。
当時の私は待ち仕事の間に、人の技術を見て覚えていた。
だから彼女だけでなく、仕事をしている主人の手元にも気を取られていた。

彼女の好意は、以前から気づいていた。
主人の留守に訪ねた時「綺麗な手」と握られたことがあった。
自分の手を男らしくないと恥じていたので、私は素早く手を引き込めた。
私の反応を彼女は悪戯っぽく笑った。
そのうち彼の仕事を身につけ、訪ねる機会はなくなった。
彼女とも会えなくなって、寂しくなった。

布団を仕立直しながら、彼女のふっくらした涙袋の目元や、ハスキーな声を思い出した。
夫妻は共に、50歳そこそこで鬼籍に入った。
歳を重ねた薄暮のような世界では、些細なことをきっかけに遠く去った死者たちが蘇る。

今は布団の中綿は化繊を主とした混紡に変わり、打ち直しができる綿100%の中綿は稀だ。
中綿は打ち直すとかなりの量が目減りするので、新棉を追加する。
仕立は、新棉で縁をやや厚く形成し、四隅を尖らせるのが美しく仕上げるコツだ。
私は、子供の頃から職人仕事が大好きで、糸紡ぎ、染色、機織りまで、年寄りがやっているのを見て覚えた。

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7時過ぎの夜道で、宅飲みの帰りらしい熟年4人組みとすれ違った。皆、楽しそうに話しながらフラフラと歩いていた。自粛ばかりの今、昔は普通だった彼らの姿が懐かしかった。
「その中に一人でも感染者がいたらクラスター発生だ。そんな呑気なことを言っている場合じゃないだろう」
そのような指摘は承知している。しかし、彼らを非難する気になれなかった。
「人生、無事ばかりが良いわけがない。時にはリスクを犯すから楽しい」
何が正しくて何が間違っていたか、2,3年過ぎて平穏が戻れば正しく検証されるはずだ。

この冬は生姜食のおかげで体が暖かく、セーターを着る機会がなかった。
先日、仕事用の絵の具だらけの半纏を洗濯した。それでこの冬初めて、仕事用のセーターを取り出した。すると、イガの幼虫に盛大に穴を開けられていた。今は絵の具だらけだが、40年昔に買ったアウトドア用だ。太めの毛糸は丈夫で肌触りも良かった。今までは、樟脳のおかげで、虫の被害を免れていた。同じタンスにしまった、他の7着のセーターを調べると、ほとんどがイガの幼虫に穴を開けられていた。原因は秋の頃、樟脳を追加するのを忘れたからだ。

すぐに近くの大型薬局へ樟脳を買いに行った。しかし、40代の店員は「樟脳」のことを知らず、商品棚にもなかった。この辺りは40年前まで田んぼだった新興住宅地で、伝統的な日本文化が断絶している。数年前の年の暮れに屠蘇散を買いに行った時も、店員は屠蘇についての知識が全くなかった。
知らない人のために説明すると、樟脳とは楠木を加熱して得られる揮発成分を結晶化したもので、爽やかな芳香がする。化学防虫剤よりずっと高価で、着物などの防虫剤として、伝統的に使われて来た。私が育った南九州には、各地に樟脳工場があり、工場の周りには、原料の楠木の芳香が漂っていた。

そんな経緯で、樟脳を買いに赤羽駅近くの薬局へ出かけた。古い住人が多い地域には、樟脳など、どの薬局でも普通に売っている。梅酒の瓶など伝統的な商品や、伝統的な食品なども簡単に手に入る。古い街は多様性も豊かで、おしゃれな年寄りや若者たちが多くて楽しい。

40度の環境ではイガの幼虫は全滅する。
虫にやられたセーターを毛布で覆い、布団乾燥機の熱風を送り込んで殺虫した。その後、セーターの穴を一つ一つ毛糸で繕って、洗濯してタンスにしまった。今度は樟脳をたっぷり入れておいた。イガの幼虫が羽化するのは5月頃だ。もし、冬眠しているイガの幼虫に気づかず、大量の成虫を羽化させてしまったら、住まい中に卵を産み付けられて、ぞっとする事態になっていたはずだ。

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