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2022年8月18日 (木)

「比較することで不幸になる」荘子。私は母方からアウトサイダーの気質を受け継いだ。2022年8月18日

今回のファミリーヒストリーは「大森南朋・我が道を歩いた先祖たちの背中」
この番組はドキュメンタリー以上の面白さに溢れている。
彼の父は麿赤兒。母は新宿風月堂で女王と呼ばれた。
風月堂は50年以上昔、観光気分で一度だけ行った。その頃は最盛期を過ぎて、風月堂から生まれたアーティストたちは、すでに大物になっていた。だから客はアーティストを装う若者たちばかりで、うらぶれた空虚さを感じた。
今はネット社会だ。風月堂などの出会いの場を経ずとも、新人は突然に認められる。
しかし昔は、人との繋がりが全てで、そこから仕事が発生していた。風月堂で仲間作りをして、世に出た小説家、劇作家、役者、絵描きは数多くいる。大森南朋の父、麿赤兒が世に出るきっかけとなったのは、風月堂で若い唐十郎から声をかけられたからだ。唐十郎は偉大な劇作家で役者だ。彼が声をかけたくなるほど、若い麿赤兒は傑出した雰囲気を醸し出していたのだろう。

私が出版界と繋がったのも、人との出会いだった。
世に出るきっかけになった絵本「父は空 母は大地」は、その文を執筆した寮美千子氏との出会いによって生まれた。それは1990年、女性向け夕刊「レディコング」の発刊記念パーティだった。私はパーティの進行には無関心で、テーブルに山盛りされたプチトマトを夢中で食べていた。彼女もそのプチトマトをテーブルの向かいから無心に食べていた。最後の1個になって、互いに譲り合った。知り合ったのはそれがきっかけだ。別れ際「何かいい仕事があったら、一緒に仕事をしましょう」と社交辞令を交わした。

それから、しばらくした深夜「シアトルの大首長の手紙を翻訳した」と電話があった。
電話口で朗読してくれた翻訳文は、衝撃を受けるほど素晴らしかった。
翌日、彼女は池袋で編集者と会うと話していた。私は同席を頼み、強引に承諾させた。
そしてすぐ、文から思い浮かんだ絵を徹夜で描きあげ、池袋へ持参した。
彼女は「そんなに急いでやるべきではない」と躊躇していた。
しかし、編集のK氏は私の絵をとても気に入り、絵本化を即決してくれた。

それ以後、出版界の約束事を完全無視した私の行動は大変な混乱を招いた。絵本作りは何度も空中分解しそうになりながらな、翌年の神戸大地震の朝に入稿した。そしてオーム・サリンの日に絵本は完成した。絵本は主要マスコミから大きく注目され、中学の教科書に大きく掲載され、高校の副読本に選ばれた。

絵を強引に売り込んだのは、描くことに強い自信があったからだ。その自信は、10代後半に受験勉強は一切せず、ひたすら絵を描き続けたことで生まれた。その頃に描いた膨大な絵は死んだ姉に預けた。姉はなぜか、幾度目かの引越し時に、全てを破棄してしまった。しかし、私は平気だった。「絵なんぞいくらでも描ける」と思っていたからだ。

芸大受験を失敗してから、絵本作りに至る20年以上、絵はほとんど描かなかった。その代わり、その時やりたいことを躊躇なくやった。大工、伝統的な彫金、陶芸、染色、機織り、鉄鍛冶と、思い立つとすぐに専門道具を買い揃えて熱中した。後年分かったことは、それらの異分野が絵を描くことにとても役立っていた。だから、40歳を過ぎて、突然プロの絵描きを目指して絵を描き始めた時、長い空白があったのにもかかわらず、絵は進化していた。

楽に稼げる彫金職人を辞めて絵描きに転向した頃はバブルの終わりで、とても良い時期だった。無名だったのに絵はすぐに売れ、出版・広告界からイラストが断るほど依頼された。様々な雑誌のイラストと雑文のコーナーを担当していた時期もあった。デザイン会社からは、大メーカーのパッケージ用や広告用のイラストを受注した。
ただし、大きな仕事はクライアントの意向に沿わなければならず、高収入だがストレスも大きかった。

絵を描く以上に、文を書くのが好きだった。このブログだけで、20年間で1000万文字ほど記入している。文に、本気でのめり込んだのはワープロとの出会いがあったからだ。それ以前の私も、毎日、ノートに溢れるように書き込んでいたが、自分で書いた文字が、まったく判読できないほどの悪筆だった。しかし、ワープロは、美しい文面をフロッピーに残すことができて、編集も自由自在だった。

若い頃の私は、一貫して本当に愚かでバカだった。
上野公園の美術館で、美術団体への参加を誘うパンフレットを渡され時「群れるやつは大嫌いだ」と突き返して言い争いになったこともあった。今思うと、その人はとても温厚な人だった。もし、その時に戻れるなら「ひどい言い方をして、ごめんなさい」と、ひたすら謝りたい。
愚かでバカだっただけでない。信じられないくらい向こう見ずで尖っていた。
仕事の取引でヤクザ者と諍いを起こした時。
「お前は、狂犬みたいにヤバイやつだ」と言われたことがある。
自分ほど繊細で温厚で優しい者はいないと思っていたので、その言葉には唖然とした。

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これは38歳の私だ。十分に大人になっていたのに、狂犬の要素が残っている。

母は久留米藩の重臣の家の出だったが、奇妙な縁で九州の侠客の養女になった。
母は幼い頃から、親の顔で近辺の商店も食堂もツケが効いた。久留米師団の将校クラブの厨房は幼い頃の遊び場だった。幼い母は本格的なフランス料理を食べ、料理法をコックたちから学んだ。
母は歌舞伎や演劇や映画が大好きだった。それは幼い頃から芝居小屋に顔パスで入り浸っていたからだ。

幼い母は盆暮れに、養母の代わりに養父が贔屓している遊郭へ挨拶に行かされた。養母が幼い母に代行させたのは、夫が贔屓するお女郎さんたちと会うのが嫌だったからだ。もしかすると、そのような過激な雰囲気を、私は母を通して僅かに受け継いでいるのかもしれない。
母の晩年、映画「鬼龍院花子の生涯」をビデオで見せたことがある。主人公が母と似た生涯だったので、共感すると思ったが反応は逆だった。
「昔のヤクザはもっと粋だった。
お女郎さんたちの言葉遣いが下品すぎる。
本当はもっと丁寧な綺麗な日本語を使っていた」
と怒りまくっていた。私は空想で描いた作家たちより、生の現実を知っている母の言葉を信じている。

今も少数の裏社会に近い人たちと年賀状のやりとりをしている。
私は絵を直接コレクターに売ることが多い。以前、関西の裏社会の方から絵を売って欲しいと打診があった。お金はとても欲しかったが、後で生じるかもしれないトラブルを考えて断ることにした。しかし、好意を断るのはとても難しい。その時は古い交友関係がとても役に立った。
意外に思われるだろうが、そちらの世界には書画骨董を愛でる人が多い。だから作家はトラブルを避け、利益を減らしても画商を通す。いざとなると彼らが、作家や売主の防壁になってくれるからだ。

優劣を抜きにすれば、自分の才能への自信は崩れたことがない。しかし、年を重ねるにつれ、その独善的な自信は大きく変化した。それは老荘思想との出会いがあったからだ。
老荘思想の言葉に「比較することで不幸になる」がある。
以来「だれが優れていて、だれが劣っている」などと比較しなくなった。
しかし同時に、優劣の判断は生活に必須だ。
それらの相反する考えを調和させるために、中庸の思想が生まれたと思っている。

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「おじいちゃんのバス停」から・・・
ぼくは 夏休みから二センチ背が伸びた。
紅葉は枯れて散ってしまった。山バスのベンチを探してみたけど、見つからなかった・・・
絵本へは左サイドからリンク。

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