銅版画「博多・板付の進駐軍基地」2023年7月13日-3
銅版画「進駐軍基地」初期の頃に彫った銅版画。
技法は銅板を直接ビュランと呼ばれる彫刻刀で彫るエングレービイング。
身近な例として、お札の原板はその技法で彫られている。
私はその技法に熟達していて、1ミリに20本の細線を彫ることができた。
高度な技術があったのに銅板画を止めたのは、完成に時間がかかりすぎたからだ。
脳裏に次々と浮かぶイメージを追いかけるには、まどろこしい技法だった。
画像は終戦直後の博多郊外にあった進駐軍板付基地。
蒲鉾型の兵舎が並び、お洒落な真っ白なスニーカーを履いた子供たちが遊んでいた。
それは夢の世界だった。
それは私が4歳くらいの頃の記憶だ。
敗戦直後、我が家は博多に住んでいた。
母は日南の漁師町の知人から熱心に誘われた。
「こちらはコメ以外なら、魚も野菜も何でもとても豊富だ」
母は食べ盛りの子供たちのため、引越しした。
しかし父は博多で怪しい闇仕事に打ち込んでいた。
父は人工甘味料のサッカリンを扱い、一時は大儲けした。
しかし、根っからの贅沢好きの性格が災いして、儲けはほとんど使い果たした。
博多の記憶は母に連れられて博多を訪ねた時の記憶だ。
私は今も、博多の焼け野原の記憶が鮮明にある。
後年、阪神大震災の後、地元ボランティア団体の人に神戸長田地区の焼け野原を案内してもらったことがある。
「そこで10人、あそこで7人、亡くなりました」
案内してくれた人が説明してくれた。
現場では、ボランティアたちが黒い灰をフルイにかけ、砕けた人骨を集めていた。
その時、戦後の焼け野原の光景が鮮明にフラッシュバックした。
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