お盆なので母のオブジェの前に岐阜提灯を飾った。2023年7月17日
「赤羽の変な老人たち」母もその一人だ。
車椅子散歩の途中、幼い子供と出会うと、母は口パクで「食べちゃうよ」と子供を脅した。
そして同時に、私は母の帽子の先を摘んで立て、魔法使いに見えるようにした。
「おかあさん! ・・まほうつかいがいるよ!・・」
子供は母親に、怖そうに訴えた。
「こどもが変なことを申し上げて、ほんとうに申し訳ありません」
母親は顔を真っ赤にして、平謝りに謝っていた。
「あらあら、想像力が豊かなこと。少しも気にしていませんよ」
母は嬉しそうに応えていた。
魔法使いの帽子だが、被り方は下写真が正しく、キワモノではない。
姉がドイツから買って来た、柔らかなフエルト製のドイツ伝統の帽子だ。
写真は母92歳の早春。
最後の肝臓ガンの大手術から完全に回復した頃だ。
私は母が97歳で死ぬ20日前まで、雨の日も、炎天の夏も、雪の日も、毎日、車椅子散歩へ連れ出した。
そうやって私は車椅子を、2万キロ以上押した。
母は80から90歳まで10回以上ガンの手術をした。
最後の肝臓がんの手術の時、切る場所がないと執刀医は悩んでいたほどだ。
その術式は成功すれば最高齢記録だった。
「もし失敗したら、記録作りのために無理な手術をした、と非難されます。
手術中も、止める理由を考えていました」
後年、執刀医が打ち明けた。
しかし、イケイケどんどんの母は「最年長記録です」と言われ、
俄然張り切っていた。
母は流石に最後の大手術は体にこたえた。
「もう、何が起きても手術はしない」
と宣言した。
それから7年、97歳の死までガン再発はなかった。
死の20日前まで車椅子散歩を続け、在宅で心不全で死んだ。
母の最期の呼気と心音は私が一人で確認した。
母は人工関節を両膝に入れていた。
献体先の日医大の解剖医に頼んで、その人工関節をもらった。
それは石膏で固め、色とりどりのビーズをちりばめてオブジェにした。
写真中がオブジェ。
お盆の中日。
母のオブジェの前に岐阜提灯を灯した。
母の人工関節は立派な梅酒の瓶のようなガラス瓶の防腐剤に漬けられていた。
私はガラス瓶をきれいに洗った。そして
「梅酒を漬けなよ」
と姉にあげようとしたが、拒否された。
娘は薄情なものだ。
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