若い頃「胡蝶の夢」を体験した。2023年8月30日
「時は静かに過ぎゆく」30年間、今も筆を入れ続けている絵だ。
流れて行く家族風景を描いた。
「人生」これほど心を捉える言葉はない。
死ぬとき、それまでの一生の記憶が高速再生されると言う。
それを動物実験で確かめた脳生理学者がいる。
それによると、心臓が止まったラットの脳では、短時間に記憶回路を膨大な電気信号が流れていた。
ラットではなく人なら、その一瞬に一生の記憶が高速再生されているのだろう。
私はそれと真逆の体験をした。
それは27歳の時、一瞬の間に40年先の未来までの光景が頭の中を駆け抜けた。
それは、まるで荘子の寓話「胡蝶の夢」みたいだった。
「胡蝶の夢」から生まれた物語の一つが心に残っている。
・・・出世を夢見て都へ向かった若者が、旅の途中の休息する。
目の前を蝶が舞っていた。
ぼんやり眺めていると、いつの間にか眠りに陥り夢を見た。
夢の中で、彼は大出世し栄華をつくした。
しかし最後は、人に裏切られ虚しく一生を終えた。
そこで彼は目覚めた。
蝶は眠りに陥る前と同じように目の前で舞っていた。
若者は故郷へ引き返すことにした。
そして、平凡だが幸せな一生を終えた・・・
以下は以前にも記したことだ。
若い頃、焼き鳥屋での飲み友達に中堅の金属加工会社の社長がいた。
彼は職人からの叩き上げで、その頃、長者番付の末席に掲載されるほど会社は絶好調だった。
私は時々、彼の工場を訪ねて旋盤などで遊ばせてもらった。
「とても筋がいいやつだ。どうだ、うちに来ないか」
彼から熱心に誘われた。
私も根っから機械好きだったので、悪い気はしなかった。
彼には美しい一人娘がいた。
社長に誘われて自宅を訪ねると、彼女は隣に座ってビールを注いでくれた。
気の合う社長に優しい夫人と美しい人。
彼らと飲むビールは格別に美味しく、気持ちの良い時間を過ごさせてもらった。
それから1年ほど過ぎた頃、突然に社長から呼び出された。
「なんだろう」と怪訝に思いながら指定された喫茶店に行った。
人気のない喫茶室で、社長はいきなり土下座をして言った。
「うちの婿になってくれ」
想像もしていなかった言葉に、私は驚愕し固まってしまった。
そしてその時、私の脳は未来へ向かって高速回転を始めた。
・・婿に入った私は身を粉にして働き、会社を大きく育てた。
そして40年後、会社は子供に任せて引退した。
美しい妻との悠々自適の毎日が続いた。
そんな穏やかなある日、傍でお絵かきをしている孫に向かって私はポツリと語った。
「おじいちゃんはね。本当は絵描きになりたかったんだ」・・・
そこで私は現実に引き戻された。
目の前で社長は頭を下げていた。
「おじょうさんとは結婚できません」
私は声を絞り出すように言った。
落胆している社長を正視できなかった。
私は逃げるように帰路についた。
茫然と歩きながら思った。
「バカ、バカ、バカ。それほど絵描きが素晴らしい仕事だと思っているのか」
私は幾度も幾度も、自分の頭を叩いた。
それから15年ほど過ぎた頃、社長は突然に亡くなった。
葬儀会場で再会した彼女は相変わらず美しかった。
彼女の夫は文房具問屋の次男坊で商才があった。
その頃はバブル全盛で、彼は土地投機で大成功して会社を大きくしていた。
しかし数年後、バブルは崩壊した。
強気の投機が裏目に出て、会社は莫大な借金を抱えて倒産した。
どれが良くてどれが悪いか、軽々しくは判断できない。
冒険する人生も素晴らしいし、
好きなことに打ち込む人生も素晴らしい。
いずれにしても「歳を取ったら反省しない」ことにしている。
それが辿り着いた今の心境でもある。
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