終戦記念日が近づいて・・2023年8月12日
「疎開」私は生まれたばかりでその光景は知らない。
その頃、建設省の技官をしていた父は九州山中で食料増産のための灌漑工事をしていた。
日本の壮健な若者は戦地へ出征して払底していた。
その代わりに、半島からの応募労務者が工事には重宝されていた。
彼らは妻子をつれて移り住み、労務者部落を作っていた。
母は毎日のように部落へ遊びに行っていた。
当時、彼らは日本国民で正当な賃金が支払われ配給も潤沢だった。
母の話では、技官として工事を指揮していた我が家より彼らの食事は上質だった。
そのようなことを言うと、一部から大非難を受ける。
当時私も、4歳から朝日新聞を愛読していたガチガチの左翼だったので、
「嘘を言うんじゃない。彼らは日本に連行され、強制労働を強いられていた気の毒な人たちだ」と、母を強く非難した。
冷静に考えてみれば、強制労働に妻子連れでやって来ることはない。
まして強制収容所なら鉄条網で囲われ監視兵が見張っているはずだ。
母が自由に出入りすることなど、絶対にできない。
彼らは近所の農家と交渉し、牛と余った砂糖や地下足袋などを交換して屠殺し、食肉にしていた。
母はその牛肉を分けてもらって助かったと話していた。
母は素朴なくらい真っ正直な人だ。
今は母の言葉を信じている。
「疎開先の製材業の親戚」依頼されて描いた絵で、私とは関係ない。
「終戦」たくさんの人からその日の光景を聞いている。
共通しているのは、青空が抜けるように美しく、町から人が消えて静かだったことだ。
平和とはそう言うことなのかもしれない。
ペットたちにとっても、戦争は苦難の時期だった。
日本犬も日本ネコも、社会の白い目に耐えながら飼ってくれた人たちがいたから、今も生き残っている。
アッツ島玉砕の折、日本側の数頭の軍用犬が無傷で生き残って米軍に保護された。
軍用犬の担当兵士が米軍に保護されて欲しいと願い、万歳攻撃の前に野に放ったのだろう。
その兵士の心情を思うと胸が熱くなる。
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