涼しくなると思い出す長姉の急死と、彫金をしていた頃の思い出。2023年10月8日
「トリプルダンス」32歳、彫金職人として認められていた頃の作品だ。
前回の彫金とは比べものにならいほど精緻だ。
ダンサーの衣装の模様は青金と赤金を象嵌した。
複雑な曲面にピッタリと象嵌する技術は大変に高度なものだ。
黒い金属部は赤銅。
一般に赤銅は赤いと思われているが、本当は漆黒だ。
5%ほどの金を含む銅合金で、昔から刀の装飾に使われてきた。
この漆黒は緑青、硫酸銅、梅酢の混合水溶液でコトコトと煮ると得られる。
しかし、混じりっけなしの艶やかな黒を発色させるのはとても難しい。
その色上げの専門家がいるくらいで、技法の詳細は秘密にされている。
私は様々な緑青や配分を変え、数千回試してこの色が出せるようになった。
完成させたら、方法は実に簡単だった。
一子相伝の秘法は、簡単だから極秘にされていることが多い。
赤色の部分は純銅。
精製前の不純物を含む銅は山銅と呼ばれ、褐色に発色する。
髪の灰色は金を1%混ぜた銀・銅合金のシブイチ。
この頃の彫金作品には後日談がある。
一番上の姉はパイロットと結婚したセレブだった。
姉のセレブ友達の父親は日本の彫刻界の重鎮だった。
姉は私の作品を彼に見せた。
彼は「弟さんを弟子にしてあげます」と姉に言った。
弟子になれば経歴に〇〇氏に師事と記入できる。
さらに役所など公建造物や公園設置の彫刻やレリーフ作りを斡旋してもらえる。
制作料の一部を上納することになるが、収入は増えて安定する。
そのことを喜び勇んで報告しに来た姉に、
「どうして、そんなヘッポコに頭を下げなければならないんだ」
と私は拒絶した。
「正喜の世間知らず。世渡り下手。頑固者。おたんこなす」
姉は散々悪態をついて、プンプン怒りながら帰って行った。
私が拒否した真意は、彫金は腰掛で本命は絵描きだと決めていたからだ。
その姉は私以上の世間知らずで、69歳で急死した。
「思い出の 長き影追う 野辺の道」
長姉は69歳で突然死した。
死因は医師にも分からなかった。
私は姉は生きる意志を捨て、インディアンの老人のように自然死したと信じている。
姉のパイロットをしていた夫には他所に女がいた。
姉はそのことは気にしていなかったが、心がすれ違う虚しさには耐えられなかったようだ。
姉はセレブな生活を捨て家を出た。
そして小さなアパートを借りて、親しかった看護婦長が勤める病院の調理室で働き始めた。
それから5年ほどした頃、姉は原因不明の病で同病院に入院した。
入院生活は楽しいと話していた。
一ヶ月ほどして姉から電話が入った。
娘が家出したと言う。
「捜索願いを出したほうがいいかしら」
「大人なんだから大丈夫だよ、ほっときな」
私は探さない方がいいと答えた。
姉も私も内心、姪は男のところにいると思っていた。
しかし、気になることがあった。
姉の声が深い井戸の底から聞こえるように、生気なくか細く反響していたことだ。
ふいに、姉は死ぬような気がした。
それから数日後の早朝、姉の夫から電話があった。
「あれが・・今朝、病院で亡くなった・・」
びっくりしたが、「やっぱり」と納得もしていた。
婦長はその前夜いつものように楽しく会話したと話していた。
姉はそれから数時間後に自然死してしまったようだ。
姉のアパートの部屋へ姪たちと片付けに行くと、
家財道具もカーテーンも布団も全て処分して何もなかった。
ただ部屋の中央に、紙袋が一つ残されていた。
その中には娘たちのアルバムと、娘たちが幼い頃に、夜店で姉に買ってあげたおもちゃの指輪が入っていた。
姉はそれだけは捨てられなかったようだ。
姉は入院する時、二度とその部屋に戻ってくることはないと覚悟していたようだ。
姉の遺体は葬儀所の遺体安置室に置かれていた。
西武線郊外の駅におりて、晩秋の武蔵野の道を2キロほど歩いて訪ねた。
棺桶の蓋を開け、額に触ると氷のように冷たかった。
「やっぱり死んだのか。やっと楽になったね」
私は声をかけながら頭を撫でた。
付き添っていた姪たちが泣きそうな顔で何か言おうとした。
「何も言うな」
私は厳しく言って安置所を出た。
明日の葬儀には出席しない。
来た道を駅へ引き返し、池袋に近い駅で途中下車して友人宅に寄った。
手土産に持っていったショートケーキを二人で食べた。
「どうしょもなく、人は死ぬ」
つぶやくと友人は幾度も頷いていた。
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