「もーれつア太郎」と、ゴーギャンの希望学と、おみくじの凶。2023年11月5日
20代の自分は"もーれつ"に馬鹿だった。
やりたいことを思いつくと、後先考えずに実行していた。
忘れられるならいいが、詳細に記憶しているので始末に負えない。
膨大に描いたクロッキーでデータ化したものは僅かだ。大半は引越しの都度紛失してしまった。
"もーれつ"繋がりでは赤塚不二夫の人情漫画「もーれつア太郎」を思い出す。
このクロッキーを描いた頃に「もーれつア太郎」の連載が始まった。
だからこのモデルには昭和40年代の生活感が漂っている。
彼の職業は町の小さな八百屋だった。
電柱の外灯はアルミの傘に20Wの裸電球の時代だ。
飼い犬は町を自由に歩き回り、見知らぬ怪しい者に吠えかかっていた。
その薄暗い通りに、さまざまな小さな店があった。
「もーれつア太郎」の店はその一つだ。
野菜果物だけでなく、豆腐・揚げ・魚の干物・缶詰から佃煮まで扱っていた。
昔はそのような八百屋が町内に必ず一軒はあった。
朝早くから夜遅くまで開いていて、主婦たちは野菜などの食材が足りないと慌てて買いに行っていた。
年寄りの客には少量の野菜でも届けてくれた。
給料前だと、ツケで売ってくれた。
そこが今のコンビニとの違いだ。
八百屋は町共同の大型冷蔵庫のようなものだった。
そのような八百屋が消え始めた頃から、孤独死が増えた気がする。
本当の自分が見えないと希望は持てない。
しかし、ゴーギャンは本当の自分が見えすぎて希望をなくした。
彼は南国の楽園で一生を終えたが、愛人に捨てられた末の孤独死だった。
死の4年前、貧しさと病苦から彼は自殺を決意した。
彼は拾ってきた麻袋を繋ぎ合わせ粗末なキャンバスを作った。そして、残り少ない絵具を擦り付けるように、傑作「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」を遺書代わりに描いた。
完成の後、裏山へ登り大量のヒ素を飲んだが、多過ぎて嘔吐し未遂に終わった。
それから4年後に看取る者もなく55歳で病死した。
生前に作品は殆ど売れず、借金や知人からの援助で細々と暮らしていた。
その点でゴッホの晩年と酷似している。
タヒチに彼の作品は素描すら残っていない。タヒチはゴーギャンを理解していなかった。
今、タヒチにあるのはレプリカばかりだ。
彼は借金返済の代わりに現地商人たちに作品を渡したが、芸術を理解できない彼らは焚き付けにしてしまった。
現在も残っている彼の作品は、たまたまフランスに送ったほんの一部の作品に過ぎない。「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」もその中に含まれていた。
ゴーギャンは希望に自分を託して画家の道を選んだ。しかし、希望学のモデルにはならなかった。
希望達成のためには、まず自分の体力と能力を正確に認識することから始める。それから遠い目標と、直ぐに実現可能な目標値を定め、一つ一つ達成して行く。そして自分に嘘をつかず、コツコツと努力を続ければ確実に希望は得られ、希望は実現するかもしれない。
絵は「アステカの王子と交信する黄金の蛇」
コルテスの希望は明快だった。しかし、黄金で幸せになれたかどうかは、よく分からない。
私は浅草観音様で六回連続凶を引いたことがある。
以来、観音様ではおみくじは引かない。
観音様の凶の確率はとても高い。
数分間おみくじ売り場を眺めていると必ず凶を引いて滅入っている人に出会える。
以前、孫を連れたお婆さんが孫のために引いたおみくじが凶で、嘆いていた。
気の毒になって話しかけた。
「凶は気をつけて生活しなさいとの啓示です。私は6回続けて凶を引きましたが、気をつけて暮らしたら悪いことは何も起きませんでした」
慰めると、彼女はとても喜んでいた。
昔、NHK・Eテレで、おみくじ専門家が解説していたことがある。
・・・幸せと不幸は紙一重で、背中合わせにくっついている。
もし、凶を引いてしまった場合はおみくじ用横棒や木の枝に結びつけて、災いから逃れられるように願う。
大吉ではいつも大切に身につけておくと幸運に恵まれる。
ところで、強力に災いから逃れ、凶を大吉に変える方法が昔からある。
その方法は、利き手と反対の手、一般的には左手だけで横棒や木の枝に凶のおみくじを結びつける。
難しい結びつけ方が困難を克服することに通じ「災い転じて福となす」となる・・・そんな内容だった。
それを聞いた私は猛練習し、左手1本で簡単に結びつけることができるようになった。しかし楽にできては、せっかくの大吉転換効果が薄れそうだ。
それで1本指で結びつけるとか、より難しい方法を考えてみたが、意味がないのでやめた。
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