久留米の心霊スポット・幽霊橋に母は祟られた。2023年12月24日
「幽霊橋に祟られた母・大正11年」
母は一人で写真館へ行き、ツケでこの写真を撮ってもらった。
幽霊橋は久留米の心霊スポット。母の育った久留米市荘島町の一角にあった。
夭折の画家青木繁も荘島町で生まれ育った。
幽霊橋と言っても橋ではない。
路傍にほとんど埋まった何の変哲も無い30センチ程の長方体の黒っぽい石のことだ。
その直ぐ先の荘島小学校は久留米藩の刑場跡で、刑場へ架かっていた小さな橋が幽霊橋と呼ばれていた。
刑場へ架けられた橋には幽霊の噂が絶えず、橋の名残の礎石にその名がついた。今はその橋も小川もその礎石もなくなった。
ちなみに荘島小学校卒業にブリヂストン創業者の石橋正二郎がいる。
大正中期、子供たちは幽霊橋は祟ると避けて通り、絶対に踏んづけたりはしなかった。
しかし、活発な母は平気だった。
「ゆうれいばし、ふんだ」と、
母は毎日、わざとその石を踏んづけて荘島小学校に通っていた。
「皆は、恐ろしそうに見ていたけど、ちっとも怖くなかった」
母はその思い出を楽しそうに話していた。
しかし、母のその後の苦労を見ると、幽霊橋に祟られていたと思えてならない。
最初の不幸は、頼まれればすぐに保証人引き受けてしまう祖母の為に、20歳で大勢の借金取りの矢面に立たされた。
その時母は奇策を用いて、巨額な債務を解消してしまった。
その後、何度か結婚に失敗した後、父と一緒になって長い苦労が始まった。
父は建設省の技官で、当初の生活は安定していた。
しかし上司と喧嘩して、恩給が付く3ヶ月前に辞職してしまった。
「俺は金なんかに目もくれず、信念を通してやった」
父は常々自慢していたが、母も私たちも父の自分勝手さを悔やんでいた。
父には一級土木技師の資格が有り、何処へでも再就職できた。
もし、山っ気さえ起こさなければ、一時在籍した鹿島建設辺りで程々に出世して、遺族年金で母は楽な老後を送っていただろう。
父は人の甘言に乗せられやすく、我慢出来ない性格だった。
会社を興しては破綻して借金を作り、母も私たちも後始末に苦労した。
しかし、晩年の母は大好きな手芸に打ち込んで幸せに過ごした。
最期は1週間寝込んだだけで97歳で静かに逝った。
多分、長年祟っていた幽霊橋の霊は円くなり、もういいだろうと母を許してくれたのだと思っている。
| 固定リンク