阪神淡路大震災から29年 1月17日
阪神淡路大震災から29年も過ぎてしまった。
1月17日は絵本「父は空 母は大地」原画の入稿日で、私は徹夜で仕事をしていた。
傍のテレビから突然臨時ニュースが入った。第一報は「大きな地震が起きてスーパー上駐車場への通路が崩落し数名の犠牲者が出た模様」だった。
その時、あれほどの大災害になるとは思わなかった。
明るくなるにつれ、報道される被害と死者は急増していった。
兵庫県知事の要請で自衛隊が出動することになっていた。
しかし、互いに連絡が取れないという失態があり、いたずらに死者数を増やしてしまった。
やっと出動した自衛隊も車の渋滞に巻き込まれて現地に到達できなかった。
常識的に考えれば、車ではなく大型ヘリで急行し、空中から隊員を降下させるべきだった。
早朝で、降下に適した無人の学校校庭はいくらでもあった。
車で出動した隊員も、渋滞に巻き込まれたのなら、すぐに車を放棄して歩行前進するのが軍隊の常識だ。
戦時を想定してそのような訓練を続けてきたはずなのに、それを生かさない姿勢に大きな違和感を感じた。
それと同じことは御巣鷹山の日航ジャンボ機墜落の時も起きた。
いち早く現場に自衛隊ヘリが到着したのに、夜間だから隊員の降下ができない、との報道があった。
「暗いから隊員を降下させられない」と聞いた時、極めて奇異に感じた。
海保の救助隊員は荒波の夜の海でも降下することがある。
まして、ヘリによる夜間急襲など軍隊の常識だ。
夜間降下など苦もなくできたはずだ。それなのに、それを行わない自衛隊は不可解だった。
後日、すぐに救助すれば助かった人が数名いたと聞き、とても残念だった。
当時のマスコミはその失態に触れなかった。
今思うと、自衛隊が無能であることを望む雰囲気が野党とマスコミ全体にあった。
それはリアル人命よりバーチャル平和が大切と言う、歪んだ思想だった。
自衛隊にもそのような野党やマスコミとの諍いを避ける風潮があった。
自衛隊が災害救援で堂々と役立つようになったのは三陸大津波以降のことだ。
今回の能登大震災では自衛隊は陸路を歩いて救援に向かっている。
後日談だが、阪神淡路大震災当時の村山総理は議会の承認を経ず、自衛隊緊急出動を発令したと聞いた。
その真相はよくわからない。
いずれにせよ、多くの犠牲者をだすことで、自衛隊の役割がまともに機能するようになったことは確かだ。
写真は荒川土手からの夕富士
| 固定リンク