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2024年2月24日 (土)

1964年厳冬、網走への旅。2024年2月24日

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「タイあたりに旅行へ行ってこい」友人が50万くれた。
「日光アレルギーがあるから南国はだめだ。網走の流氷見物なら行ってもいい」
「だめだ、海外旅行へ行け」
「いやだよ。どうしても海外旅行なら金は返す」
友人と食事をしながらそのような会話をした。


日光アレルギーは50代に入ってから始まった。
10代までは真っ黒に日焼けしていた。上京した時、黒人と間違われたくらい黒かった。
しかし、日光には元々弱い体質だったようだ。
長年の無茶な日焼けが皮膚にダメージを与え、後年にアレルギーを招いたようだ。


友人とは60年以上の付き合いだ。
先祖代々の資産家で今は会社を経営している。
50万を返そうとしたが「持っておけば役にたつだろう」と受け取らなかった。
それで後日、金額相当の絵を送っておいた。

今まで窮地に陥った時、彼は幾度も助けてくれた。
アーティストたちは、そのような支援者のおかげで成り立っている。


今回の絵は、1964年1月19歳、網走の安宿に泊まった時の記憶だ。
シーズンオフの泊まり客は私一人だけだった。
帳場脇の部屋でスートーブ脇の炬燵に入って夕食を待っていると、40歳ほどの主人が顔を出して、軽く挨拶して出かけて行った。


奥さんは30歳ほどで子供はいなかった。
「今日の泊まりはお客さん一人だよ。夕飯は私と一緒に食べようね」
奥さんは炬燵の上に、いそいそと夕飯を並べた。
「若いのに観光に一人で来たの。流氷はまだ来ていないし、見るところなんかないでしょう」
19歳の私はただ「えー」とか「はい」とか応えるだけだった。
「お客さんは東京から来たの。でも九州の人でしょう。訛りでわかるわ。実は彼も九州なの。
あの人、どうしてこんな地の果てまで来たのでしょうね」

奥さんは遠くを眺めるような目をして、ちょっと言葉が途切れた。
今の私なら「貴女に会うためでしょう」などと言って喜ばせるのだろう。しかし、当時の私は極めて無口だった。

傍のルンペンストーブは熱で赤みを帯びて、ヤカンが沸騰していた。
ストーブ近くには醤油や酒が沢山並べてあった。

「台所に置いておくと、すぐに凍って割れてしまうの。
でもルンペンストーブは朝まで持つから、凍っていけないものは全部この部屋においておくの」

奥さんは無口な私など気にせず、楽しそうに話し続けていた。

食卓には北海道の海のものが並んでいた。
何が出ていたのかは記憶にない。ただ、オレンジ色に輝くイクラだけは覚えている。
九州にはない食べ物だったので、上京してしばらくは珍しくよく食べた。


食事の後、奥さんが客部屋のルンペンストーブに火を入れてくれた。
円筒形のストーブには石炭がぎっしり詰められていて、上部の蓋を開けてから、木切れと丸めた新聞紙の焚き付けに火をつけた。
ストーブは火の持ちがよく、朝まで暖かさを保った。
薪ストーブだと絶えず薪を入れないと、すぐに燃え尽きてしまっていた。

朝食に帳場に降りると、主人はいなかった。
「あの人は午前様だったのよ。まだ寝ている。本当にろくでなし」
奥さんは寂しそうに呟いた。
一人で朝食を急いで済ませ、勘定をした。

その日は網走刑務所の見学する予定だ。
行きがけの道路脇の河原に、ダイヤモンドダストが朝の光に煌めいていた。
刑務所は雪に埋もれ、近づくこともできずがっかりした。
冬は寒いだけで、見物するところは他になく、そのまま網走駅へ向かった。

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