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2024年2月 9日 (金)

昭和7年20歳。母は熱い九州女だった。2024年2月9日

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昭和7年20歳。母は「花と龍」に登場するような熱い九州女だった。
その頃、久留米から上京して浅草などへ行くと「いつぞやはご厄介になりました」と地回りが飛んできた。
母は激しい気性だが本質はアート好きの大正ロマンの人だった。母と比べると私は極めて温厚で優しい。
・・元画像の白黒写真にホトショップのカラー化機能を使った・・

母が子供の頃、祖父甚平に小遣いをねだると財布のまま渡してくれた。
「1銭貰っといた」と母が1銭銅貨大の50銭銀貨を見せると甚平は「そうか、そうか」と楽しそうに笑っていた。
優しい甚平に母はいつも気が咎めていた。小遣いが余ると酒好きの甚平のために酒を買って帰った。

甚平は85歳で死ぬまで頑健で歯は一本の欠損はなく硬い肉を好んで食べていた。
頭も目もしっかりしていて、母がどの硬貨を選んだのかよく分かっていた。
母は信頼されると逆に罪の意識が芽生えた。
やがて財布から取り出した硬貨を正しく甚平に報告するようになった。
母は養女で甚平との間に血の繋がりはないが、母は晩年まで、甚平を深く敬愛していた。

甚平は謎の多い人だ。実家は久留米近郊の造り酒屋だが、若い頃は血の気が多く実家と軋轢を起こして出奔したようだ。
西南の役で甚平は西郷軍に従い、城山に最後まで立てこもった。しかし、上司に諭され戦線を離脱して久留米へ帰還した。

甚平は料理と釣りが好きだった。
母は彼から魚の捌き方と料理全般を教わった。そして養父健太郎からは人形作りなど手芸を学んだ。
とは言え甚平も健太郎も女々しさのかけらもない屈強な男たちだ。

母の養母千代は料理も裁縫もまったくできない破天荒な明治女だった。
そのような特異な環境で育ったせいで、母は私が世間と違う生き方をしても、料理や手芸を好んでも受け入れてくれた。

養父健太郎も謎が多い。手芸やもの作り好きが高じて芝居小屋の道具方をしていた。
彼は二枚目の遊び人で久留米の各所に女を囲っていた。祖母はそのことをとても嫌がっていた。
健太郎は腕っ節が強く、九州の侠客や博徒との付き合いが深かった。母は決して話さなかったが、ただの道具方ではなかったようだ。

そのような娘婿健太郎に対する甚平の感情は複雑だった。
二人は同じ飲み屋でよく飲んでいたが、二人が言葉を交わすのを母は見たことがない。
幼い母は、離れて飲んでいる二人の間を行き来して、好物のイイダコなどを二人から食べさせてもらっていた。

元写真は白黒。
生前母から着物の色は藤色と聞いていたので、ホトショップのカラー化機能と手作業で色調整した。

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