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2024年2月11日 (日)

1993年バブル崩壊時の48歳私。2024年2月11日

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1993年バブル崩壊が始まった48歳の頃に私が下げていたバック。
とにかく私を覚えて欲しくて目立つバックを自作した。
おかげで業界では一発で覚えてもらえた。
赤羽台の自然林の中に住んでいた。玄関へは山裾から階段を上って行くのが正式の道だが、私は家裏の山道を利用していた。当時は毎日のように午前様だ。深夜、その真っ暗な細い山道を手探りで帰宅した。


飲むのは下北沢のアーティストの溜まり場が多かった。
帰りは小田急線終電に乗り12時半頃に新宿に着いた。当時の埼京線終電は12時なので間に合わない。1時まで運行している山の手線で池袋に出た。それから赤羽台の自宅まで13キロを歩いて帰った。

池袋の裏路地にはコロンビア人の街娼が立っていた。彼女たちを仕切っていたのは驚くほど肩幅の広いコロンビア人ヤクザたちだった。
その頃、若者たちの「親父狩り」が頻発していた。
だから明るい幹線道路を歩いた。道路反対側で4,5人の若者達にボコボコに殴られ蹴られている中年男性を見たことがある。それは一瞬で終わり、警官が駆けつけた頃は若者たちは散って逃げていた。
若者の喧嘩にはほぼ毎回遭遇し、道に散った血痕を見かけるのは普通だった。

警官の不審尋問にもよく会った。運転免許証など携帯していないので、いざとなったら友人に無線で連絡してもらった。当時は朝まで起きている友人が多く、誰かが身元を証明してくれた。

山手通りから中山道。中山道の板橋本町で環七に左折して姥ケ橋交差点から西が丘サッカー場を経て家へ向かった。
西が丘サッカー場辺りは寂しい場所だが、その辺りで空が白み始め、新聞配達や早朝出勤の勤め人が増えるので安堵した。

深夜の道では、深夜営業のラーメン屋やコンビニの明かりが心強かった。酔い覚めで腹が減ると、ラーメンやコンビニの中華饅を食べた。
終夜営業のファーストフード店でコーヒーを飲むこともあった。明け方のファーストフード店は老人の溜まり場になっていた。
店ではお洒落をした老人が早朝散歩のおばあさんたちをナンパしていた。彼らは今の私より一回りは若かく、カップルに成功すると早朝割引の連れ込みホテルへ直行していた。

午前3時ころ、家近くの裏路地を歩いていて若い警官に不審尋問を受けたことがあった。身分証明がないので「家は直ぐ近くですから」と着いて来るように言った。裏路地を抜け真っ暗な山道にさしかかると、警官は立ちすくんでいた。
「家は直ぐそこですよ」とせかすと「分かりました。これ以上は必要ありません」と警官は引き返して行った。どうやら、身の危険を感じたようだ。

その時は軟弱やつと思ったが、あれは偽警官だった。気の弱そうな丸顔に眼鏡をかけた小太りで、どう見ても格闘訓練を受けた体型ではなかった。
一人で不審尋問したのも変だ。不審尋問は二人が原則で、一人が逃げ道を塞ぐように立ち、もう一人が尋問する。多分、警察オタクの若者が制服を着て、不審尋問を試したのだろう。

深夜の暗がりで、190cmほどの大男にカツアゲされたこともあった。「金を貸せ」と言うので「これしかない」と100円玉を渡すと「すみません」と男は受け取った。あれは何だったのか今も不可解だ。

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