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2024年4月10日 (水)

桜の昭和27年小学校入学式。2024年4月10日


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昭和27年、桜満開の小学校入学式。歓迎の門は菜の花とレンゲの花で縁取られていた。母は質屋に入れてあった晴れ着を受け出して着ていた。私はダブダブの学生服と帽子と靴だ。当時の子供はそれがスタンダードだった。母の着物は式が終わるとすぐに質屋へ戻った。

私が育った漁師町は公営質庫の発祥の地だ。漁があれば贅沢し、なければ食うや食わずの漁師の生活を憂えた町長が発案した公営の質屋だった。だから、わずかな利子さえ払っておけば、母は必要な時に晴れ着を受け出すことができた。
「質屋に入れておけば、虫などで傷まないように大切に保管してくれるから便利だ」
母はそのように話していた。当時は着物には価値があり、質屋のおかげで私たちの暮らしは成り立っていた。

背景の小学校は実際は絵に描いたよりずっと立派だ。
友人の祖父は大型定置網のブリ漁で財を成し、明治時代に校舎を寄贈した。本館は彫刻など施されたとても立派な建物だった。
絵の階段脇に浅い1メートル四方ほど足洗いを描いてある。私たちは冬でも校庭を裸足で駆け回り、そこで足を洗って教室に入った。真冬は氷が張っていたが、寒かったとの記憶はない。

上履きは自分で編んだ藁草履だった。だから今でも藁で縄を糾い草履を編むことができる。藁草履はとても暖かかったが、すぐに擦り切れるのでボロ布を編み込んだりして工夫した。大きくなって沢登りを始めた時、自作の草鞋は重宝した。

入学式のあとの身体検査の時、母が私の服の脱着を手伝ってくれた。
「何故、手伝うのだろう」と私はとても不思議だった。私は末っ子で可愛がられたが、一般の末っ子の感覚とはかけ離れていた。服の着脱、ボタン付けや破れの繕い、お昼の食事支度、全て幼い頃から自分でやっていた。
多分母は見栄を張って、よその母親のようにそうしたのだと思う。

私は極めて変な子だった。
掃除の時間は伝わずに、一人で図書室に行って本を読んでいた。
しかし、純朴な土地柄で、それを非難する者はいなかった。手伝いはしなかったが、絵新聞など、絵を描く作業は私一人でやっていた。みんなは私にしかできない役割を認めていたようだ。

当時はGHQの指示でフォークダンスなどの時間があった。私は踊りが大嫌いだった。先生はそんな私に「踊らなくてもいいから、お絵描きでもしていなさい」と放っておいてくれた。私は踊っている輪の中で地面に絵を描いてすごした。

絵は何を描いても、先生は満点をくれた。そしてみんなはそれを容認し、えこひいきだと非難する者はいなかった。もし都会の小学校だったら、私はかなり厳しい状態に追い込まれ、今の自分はなかったと思う。

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