桜の頃に思い出すこと。2024年4月7日
山の動物たちの花見の宴。初期の作品だが桜が咲くとこの絵を思い出す。山猫はほら話を自慢げにみんなに聞かせている。山犬は大酒を煽りながら楽しそうに頷いている。鹿は蹄なのでせっかくの盃を手にできない。花見の宴は夜が白むまで延々と続いた。
以前、散歩帰りに桐が丘団地を抜けていた。その道で車椅子を押す親子によく出会った。車椅子に乗っているのは交通事故で重度の障害を負った息子だ。大柄な息子を小柄な70歳ほどの母親が押すのは大変そうだった。
三十代後半の息子の頭には半分を縦断する大きな手術跡があった。それは交通事故の跡で、生死を彷徨いなが奇跡的に助かった。
母親は今も、事故の知らせがあった午後3時になると胸が苦しくなると話していた。彼女の人生はその一瞬から激変し、夢見ていた息子夫婦と孫達に囲まれた穏やかな老後を完全に失ってしまった。
それから数年後、親子とはまったく出会わなくなった。元気なら母親は80代中ば、息子は50代前半だ。年月は一瞬で過ぎてしまう。過ぎてしまった年月に隔たりを感じないのは、人は時間の幅を記憶できないからだ。時間の幅は記憶を時系列に遡ることでしか認識できない。
そして今現在も、時間は過去へ過去へと取り込まれ続けている。
宇宙論の一つに、宇宙はシャボン玉の表面のような二次元で、我々が感じる宇宙はシャボン玉中のような空間に二次元の情報が映し出された幻覚である、との考えがある。人が認識している現実も同じように、脳の記憶域に収まった情報をホログラムのように脳内に立体化して認識しているのだろう。
世の中には、豊かな人、貧しい人、才能がある人、権力者、不幸な人と様々いる。それらの違いは、過去の積み重ねによって生まれる。
未来は過去からの因果関係で生み出され続けているが、それは不確実で、積み上げを無視して突然に予期しない変化がやってくる。
それを痛烈に感じたのは、阪神大震災と三陸大津波の時だった。
地震が起きる寸前まで平和な日常が流れていたのに、被災者は一瞬で不幸のどん底へ落とされてしまった。
荘子の名言に「不測に立ちて無有に遊ぶ」がある。
意味は・・・明日のことは考えたり計画したりせず、今起きていることに対して受け身に素直に従えば、生き生きとした人生を送ることができる。未来を予測したり、新たに起きた結果を他と比べてはならない。結果を否定してしまうのは、他と比較して劣っていると思うからだ。未来を他と比較することで、運命は良くなったり悪くなったり揺れ動く。
命は不安定でいつ失うか分からない。
そして最終的には誰もが失ってしまう。
どのような権力者でも、貧乏人でも最後には死が訪れる。
ガン宣告を受けてうろたえ「いくら金がかかっても良いから治して欲しい」と医師に懇願する多くは裕福な権力者たちだ。
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