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2024年5月 1日 (水)

50年前の今日は在宅で看取った祖母の命日。2024年5月1日

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50年昔の5月1日に祖母・千代を自宅で看取った。祖母は子供の頃、眼瞼下垂にかかった。父甚兵衛は眼科医を手配したが、祖母は遊びに夢中で殆ど行かなかった。
祖母の実母は小学校入学前に早世していた。実母は久留米藩の武家の娘で、女の鏡と言われるほどの人だった。「もし生きていたら、もっと真っ当な人生を送れたのに」と祖母はよく話していた。

当時の医者は商家と同じで、年末に纏めて治療費を支払っていた。年末に治療費を聞いてくるように甚兵衛が言うと、祖母は口から出まかせに30円だと答えた。
明治時代の30円は今の貨幣価値で60万ほどだ。甚兵衛は千代をまったく疑わず、30円を渡した。祖母は大喜びで駄菓子屋に行き、店の品を買い占めて長持ちに詰めて家に運ばせた。それから毎日、近所の子供を集めてはお菓子やおもちゃを配って顔を売った。

祖母は料理も裁縫も、女性のすることは一切しなかった。この破天荒な性格は終生変わらず、母は祖母の後始末に散々苦労をさせられた。

眼瞼下垂がなければ、ぱっちりした大きな目だったと祖母は言っていた。若い頃は、町を歩くと男からの付け文で袂が重くなったと自慢した。
私は眉唾だと思っている。

甚兵衛が子供を信じたのは信念だった。
彼は西郷軍に従い、最後まで城山へ籠ったほどに血の気が多い苦労人だ。子供の嘘など簡単に見抜いていたのに、気づかないふりができる人だった。

戦前祖母は、門付が来ると家に上げて風呂に入らせ、新しい着物を与えて身の上話しを聞くのが大好きだった。そして帰りには財布ごと渡して見送った。
祖母は人に顔を売るのと、
「千代しゃんは本当に腹がふとか」と褒められるのが大好きだった。
その性格のため簡単に人の借金の保証人になった。母はその後始末に散々苦労させられた。

祖母が死んだ時、戸田斎場にはツツジが美しく咲いていた。
何もかも、遠く過ぎ去ってしまった。
昼間は暑いくらいだが、夜風は涼しい。
荒川土手を歩きながら「パッヘルベルのカノンと」カラヤン指揮の「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴いた。
荒川対岸・川口の高層マンション群がニューヨークの夜景のように美しかった。

写真、赤羽台、緑道公園の夕暮れ。

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