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2024年6月20日 (木)

母から聞いた大正から昭和の無名の女性たちの物語を劇画調に描き始めた。2024年6月20日

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画像・母92歳赤羽自然観察公園にて。
母は80代に7回ガンの手術をした。
そして90歳の時、肝臓がん手術に成功した。
7年後、私は母を在宅で看取った。
享年97歳、ガン再発はなく死因は心不全。母は波乱万丈の一生を終えた。

22年前、89歳の母は腰椎を圧迫骨折して激痛で歩けなくなった。その頃、近所に若い医師が整形外科を開業した。医院は当時珍しかったペインクリニック科を設けていた。すぐに車椅子で連れて行って、腰椎硬膜外麻酔を受けた。
激痛があるとその周辺の血流が停滞して痛みは悪化し持続する。しかし、その激痛を一時的にでも軽くすると、その箇所の緊張が取れ、血流が回復して痛みは緩和する。

母はその整形外科の最初の患者となり丁寧な治療を受けた。その結果、一歩も歩けなかった母は自力でトイレまで行けるようになった。さらに回復させるため、毎日、4キロ離れた自然公園まで車椅子で連れて行ってリハビリをさせた。
その往復の車椅子は鳥の声が聞こえるくらい静かだった。移動する間、母と私は時間を持て余した。

母は何となく昔の思い出を話し始めた。内容は初めて聞くことばかりで興味をそそられた。それから8年間、母の話しは毎日続いた。その結果、母が関わった大正・昭和の膨大な歴史を知ることになった。

その中で心に残ったのは祖母が親しくしていた女性の一生だ。彼女は大正から昭和へ、戦争に翻弄されながら生きぬいた。
他にも強く心に残った女性たちが多くいた。
彼女たちは市井の無名の女性たちだ。彼女たちの共通点は、明るく優しく恨み言を言わなかったことだ。

私は高齢になり視力が衰えた。やがて脳も画力も衰えるだろう。その前に、彼女たちを描き残すことにした。私が語らなかったら、彼女たちの記憶は跡形もなく消えてしまう。

私は彼女たちを一人の女性「おはな」に集約して、劇画調に描くことにした。
文体は母が思い出を語る形式にした。
本文はまだ一枚も描いていないがイメージは最後のページまで明瞭に頭の中にある。
本文は鉛筆画として描き、ホトショップで色をつける。その形式の画像は幾度も投稿しているので、お分かりと思う。

ページ順に毎日投稿し、7月末に描き上げる予定だ。
電子書籍に対応するように、今回添付画像はcover imageの指定サイズに描いた。題名は劇画調に「昭和 花あらし」とした。

通常の投稿も休むつもりはない。文を書くのは苦にならない。
今日はこの投稿と表紙絵の二つを投稿する。

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cover image 筑後川堰堤での花見の宴で一心不乱に踊っている主人公のおはなさん。背景は大正から昭和を象徴的に描いた。画中の川は筑後川ではない。筑後川は九州一の大河である。さらに、電車・工場と日本のどこでも見られた昔の都市風景を加えた。

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