昭和花あらし、いっちゃんの誕生。2024年6月23日
「昭和花あらし-3」
なぜ、おはなさんがいっちゃんを無視して踊り続けたのか、それが分かったのは大きくなってからでした。
大正3年、おはなさんはいっちゃんを産みました。
おはなさんの夫の名は猪太郎。
むさ苦しい名前ですが、本人は色白の役者みたいな二枚目で女にはもてました。
仕事は、久留米に多い酒造所の腕の良い杜氏です。
第一次世界大戦特需の好景気で、真面目に働いていたらおはなさんは幸せになれたはずです。
しかし、無理に誘われて初めてやった博打が大勝ちして、以来、のめり込んで行きました。
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久留米一帯は良質な水が湧き、米の大産地だったので酒造所が多かった。
母の養母の父親甚平の実家も造り酒屋だった。
しかし、家族内で諍いがあり、甚平は若くして出奔した。
その頃、西南の役が起きた。
甚平は一旗あげようと西郷軍に加わった。結果は連敗続きで、最後は甚平も鹿児島の城山に籠った。
壕の中を移動していると、金無垢のキセルが落ちていた。
すぐに上司に届けると「この戦いは直に終わる。恐らく落とした者は自害するだろう。お前はすぐに、そのキセルを持って国へ帰れ」と諭された。上司は金キセルが誰の持ち物なのか分かっていたようだ。
甚平は帰る気はなかった。
それから数日して、砲声が突然止んだ。そして目の前を紫の帛紗が頭の辺りににかけられた遺体が運ばれて行った。
それは、自刃した西郷さんだった。
甚平はそれを機に、金のキセルを手に久留米へ帰った。
母の記憶では、甚平はこれ以上の良い人を見たことがないくらい温厚な料理好きの老人だった。しかし、若い頃は血の気が多く、あちこちで諍いを起こしたようだ。その後彼は何を生業にしていたのか、母にはよくわからなかった。
甚平は帰郷してから、久留米藩藩士の娘と世帯を持ち祖母が生まれた。
しかし、その人は祖母が小さい頃に亡くなった。
「もし、母親が生きていたら、真っ当に育ったのに」
祖母がぼやいていたのを聞いたことがある。
祖母は子供の頃、瞼が下がる病にかかった。
甚平に、眼科医に通うように言われたが、祖母は行かずに遊んびほうけていた。
当時の病院は暮れに一括して治療費を支払っていた。暮れに、甚平がいくら支払えばよいか祖母に聞くと30円だと思いつきの額を答えた。
甚平は黙って祖母に30円を渡した。当時、小学校教員や巡査の初任給は月8~9円。一人前の大工や工場の技術者でも月20円だった。だから、祖母はとんでもない額を甚平にふっかけたわけだ。
甚平は嘘だと分かっていたが、子供の言葉を信じることを信条にしていた。
祖母は喜び勇んで駄菓子屋へ行って店の商品を買い占め、長持ちに詰めて家へ運ばせた。そして、長持ちにあぐらをかき、近所の子供を集めて菓子を配った。祖母はその頃から顔を売るのが大好きだった。
母に料理を教えたのはその甚平だ。そして手芸を教えたのは養父だった。しかし二人とも軟弱とは程遠い武闘派だった。
その養父が何をしていた人なのか母にはさっぱりわからない。芝居小屋に篭って小道具作りをしたり、書割を描いていた。母が芝居小屋に遊びに行くと、器用に姉さん人形を作ってくれた。
そのような趣味の世界では収入にはならない。しかし養父はあちこちに女を囲っていたので、金回りは良かった。
甚平と養父はよく同じ居酒屋で酒を飲んでいた。しかし互いに離れ、目を合わすこともなく黙々と飲んでいた。母は二人の間を行き来して酒のつまみを食べさせてもらっていた。だから終生、母はこのワタとか鮎のウルカなど、酒の肴が大好きだった。
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