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2024年7月23日 (火)

昭和花あらしー26、いっちゃんの戦死。2024年7月23日

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「昭和花あらしー26」入営3ヶ月後、いっちゃんは輸送船で南方へ向かいました。
輸送船は夜のバシー海峡で米潜水艦の攻撃を受け撃沈され、いっちゃんはあっけなく戦死しました。
戦死を聞いた時、いっちゃんが羽織袴で出征したのは自分の葬儀のつもりだったのだと思いました。

人手不足でおはなさんの仕事はいくらでもありました。
でも、配給だけでは生活できません。
赤ん坊のために闇で食糧を買うので、お金はすぐになくなってしまいました。それでも、おはなさんは辛い顔を見せずに、赤ん坊を背負って働き続けました。
おはなさんは優しい人です。
人に負担をかけないように、決して悲しさを見せませんでした。

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戦争中、台湾とフィリピンの間のバシー海峡は輸送船の墓場と言われていた。そこで米潜水艦の攻撃を受け、約10万の日本人が犠牲になった。
昭和19年ならまだ護送船団を組んでいたので、防衛態勢が取られていたが十分ではなかった。
いっちゃんは脱出できたら護衛艦に救出されたかもしれない。しかし、船中で魚雷爆発に直撃されたらひとたまりもなかった。

日本の官僚は杓子定規だと非難されることが多い。
しかし、国策事業の半島出身の労務者に対しては、その杓子定規が幸いして、国の規則通りに配給をしていた。

彼らは砂糖を調理に使わないので、母が着物など持って労務者部落へ行くと余った砂糖と交換してくれた。
若い頃の私はガチガチの左翼だったので、母がその話をすると「嘘つくな」と完全否定した。母の話す状況は詳細でリアルで、作り話ではない。
母の死後、もっと信じてあげればよかったと後悔した。

労務者たちは支給品の地下足袋などと近隣農家の役牛と交換し、屠殺して肉を食べていた。母はその牛肉をお裾分けしてもらった。

母は毎日のように部落へ遊びに行って、彼らの家族と親しく付き合っていた。彼らは独自の流通ルートを持っていて、山中なのに海産物などでも簡単に手に入れていた。母はそこで、鯛キムチの作り方を学んでいる。
もし強制連行なら、鉄条網で囲まれていて母が自由に訪れることは不可能なはずだ。少なくとも母の知っている集落は強制連行ではなかった。

ちなみに祖母は、戦時中でもタンスの中にお菓子や黒砂糖など、貴重品を沢山しまっていた。祖母は特別の人脈を持っていたようだ。

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