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2024年7月24日 (水)

昭和花あらし-27、グラマンによる機銃掃射。2024年7月24日

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「昭和花あらし-27」昭和20年になると、各地で空襲が始まりました。
私たちがいた日田の山中からも北九州の空襲が見えました。
誰も信じてくれませんが、探照灯に捉えられたB29がキラキラと光っているのが見えました。

初夏の頃、苦労続きのおはなさんを慰めようと、天ヶ瀬温泉に宿をとりました。当時は米を持参しないと旅館は泊めてくれませんでしたが、夫が国策事業をしていたおかげで米のゆとりがありました。

おはなさんと赤ちゃんと私たちは川辺の露天風呂にのんびり入っていました。
すると突然グラマンが低空飛行で現れ、私たちに機銃掃射しました。
おはなさんは赤ちゃんを抱いて駆け出し岩陰に飛び込んで「こっちへ」と私たちを呼びました。

グラマンは引き返して掃射し、露天風呂の柴垣は粉々に吹き飛びました。
「操縦士がニヤニヤわらいながら撃って来た。いやらしいやつ」
母は怒っていました。

私は咄嗟にみんなの衣類を抱えてきました。
おはなさんは、みんなの顔が泥だらけだと笑っていました。
私も母も、なぜか可笑しくなって大笑いしました。

「この子を絶対に守ろうと思ったら、何も怖くなくなりました」
おはなさんは何かが吹っ切れたように話していました。

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すでに敗色濃厚だったが、グラマンによる機銃掃射は一般人に恐怖を植え付けるために頻繁に行われていた。私が育った漁師町でも至る所に銃弾の跡が残り犠牲になった人もかなりいた。

最初の八幡空襲は昭和19年6月16日に中国奥地ほ発進したB29編隊により行われた。その時は日本は詳細な情報を得ていたので迎撃ができた。
おかげで製鉄所には空襲被害はほとんどなかったが、民間住宅地に爆弾が落ちて死者が出た。

昭和20年に入ると、硫黄島、沖縄と次々と陥落して、B29に護衛戦闘機をつけることができたので迎撃は難しくなった。
日本のレーダー網は隙間なく張り巡らされていた。
大本営はベテラン操縦士と迎撃機を本土決戦用に温存させる戦略に変わり、日本の主要都市はB29による空爆に蹂躙され始めた。

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