« 昭和花あらし-14 猪太郎の死。2024年7月11日 | トップページ | 昭和花あらし-17- 債務者たち。2024年7月14日 »

2024年7月12日 (金)

昭和花あらし-15 結核で稲毛のサナトリウムに入院 2024年7月12日

M_1_20240712112101

「昭和花あらし-15」
私は神田に何となく家を借りて東京暮らしを始めました。
母も時々、物見遊山に上京しました。


水泳は大好きでしたので、夏に入るとお台場で泳いでいました。
私は肌が日に焼けず赤くなる体質でした。だから曇りや雨を選んで泳ぎに行きました。当時の東京の夏はやっと30度を超えるくらいです。雨が降りますと肌寒いくらいでした。
そのような無茶な水泳を繰り返していましたら、タチの悪い風邪をひいてしまいました。夕暮れになると微熱が出て咳も止まらず、体の気だるさが取れません。

病院へ行くとレントゲンを撮られ、すぐに結核と診断されました。
当時は結核は不治の病で治療薬はありません。
海岸や高原の清浄な大気の中で、栄養のあるものを食べのんびり過ごすのが唯一の治療法でした。

私は稲毛のサナトリウムに入りました。
「これで自分の一生は終わりか」
そう思うと泣けて泣けて仕方がありませんでした。

----------------
当時、結核の治療薬は皆無で、オゾンの多い海岸や高原が結核菌を減らすのに役立つと考えられた。それで、東京近郊では湘南や稲毛にサナトリウムが建てられた。たとえば、ジブリ作品の「隣のトトロ」のお母さんが入院していたのもサナトリウムだ。

当時の結核は若者が罹りやすい死病で、多くは数年で亡くなった。
だから母は「短い人生だった」と嘆いた。
しかし、生還してからは長生きしたので私が生まれている。
そのような人は意外に多い。

当時の稲毛は自然豊かな風光明媚な土地だった。
埋め立てが進むまでは海岸線はずっと内陸部にあった。
絵描き仲間の女性画家が稲毛に住んでいた。
親の職業は倉庫業と話していた。
私は田舎者なので、倉庫で働いている労働者だろうと思って、
「それは大変なお仕事されていますね」と同情した。

後日、彼女の家を訪ねた。
住まいは映画に出てきそうな古い大きな洋館で、重い扉を開けると玄関だけで10畳ほどあった。しかも彼女は庭にガラス張りの体育館くらいのアトリエを持っていた。
その時初めて、倉庫をたくさん所有している資産家だと知った。
稲毛のサナトリウムの多くは病院として今も残っている。

Ma_3

Ma_4

Ma_5

Mas

|

« 昭和花あらし-14 猪太郎の死。2024年7月11日 | トップページ | 昭和花あらし-17- 債務者たち。2024年7月14日 »