昭和花あらし-14 猪太郎の死。2024年7月11日
「昭和花あらし-14」満州国が建国されました。
猪太郎さんは関東軍御用達の酒造会社に杜氏として招かれました。
国内では統制が始まり、酒造は厳しくなっていましたので、喜んで一人で渡満しました。
それから間もなく、猪太郎さんは借金返済の一部にして欲しいと母にお金を送ってきました。
同封の手紙には「仕事が軌道に乗ったら、毎月おはなといちにお金を送ります」と書かれていました。
母はそのお金を手紙と一緒におはなさんへ渡しました。
しかし、猪太郎さんは約束を果たす間もなく、長チフスであっけなく死んでしまいました。
「すこし期待させて・・さっさと先に逝ってしまいました」
おはなさんはたった一度だけ嘆いていました。
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戦前の九州の人間は、行き詰まると簡単に満州へ飛び出した。東京へ出ても何もできなくても、大陸なら何とかなった。だから満州生まれの友人はとても多い。
友人の父親は、九州山地の旧家の出だった。
戦前、実家は事業に失敗し広大な山林を失ってしまった。
しかし、その子供達は満州へ渡って、それぞれに成功した。
ある日、その一人から実家へ重い小包みが送られてきた。荒縄で括られた梱包を解くと大型トランクが出てきた。トランクを開けると高額紙幣の100円札の束がきゅうぎゅうに詰め込まれていた。
同封された手紙には「このお金で昔の土地を買い戻してください」と書かれていた。家人は数えきれないほどの現金にビックリして、皆んなで相談した結果、満州へ送り返してしまった。
この話で面白かったのは大金ではない。彼らが日本の郵便制度をとても信頼していたことだ。小包が輸送される間に、事故で紛失するなど彼らは微塵も考えなかった。
もう一人の友人の父親は満州で医師をしていた。若い医師は僻地勤務の義務があった。内地の10倍以上の給与だったが、宿舎は広大な原野の真ん中にあった。遊興街がある所まで数百キロは離れているので、お金の使い道が全くなかった。食事付きの住まいで生活費はかからず、数年でとんでもないお金が貯まってしまった。
僻地勤めが終わった後、彼は若くして満州医大の教授になった。
長春の官舎は暖冷房・水洗トイレ付きだった。電話は内地より早くダイヤル式が採用されていた。
彼らが戦後引き上げて日本暮らしを始めた時、突然に未開生活に突き落とされ失望したと話していた。
だから、腕の良い杜氏だった猪太郎の給与は内地よりかなり高額だった。もし健康を保てたら手紙に書いていたように、おはなさんといっちゃんの生活は戦争が激化するまでの少しの間だけ楽になっただろう。
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