昭和花あらし、姑を看取った。2024年7月10日
「昭和花あらし-13」
昭和大恐慌が始まったころに、おはなさんは姑を看取りました。
遅れて弔問に行くと祭壇の前で、いっちゃんが大泣きしていました。
「いのさんは来たの」
母が聞くと、おはなさんは俯いたまま黙っていました。
「そのほうがいい」
母はそう言っていました。
でも私は、猪太郎さんが遠くから葬儀を眺めていたのを知っていました。
おはなさんの家へ急いでいると、物陰で猪太郎さんが泣きながら手を合わせていました。
そのことは母にもおはなさんにも黙っていました。
葬儀に顔を出さなかったのは、猪太郎さんなりのけじめだと思ったからです。
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そのころ母は好きな競馬をするために度々上京していた。
関東大震災で壊れた根岸競馬場は、J.H.モーガン設計による鉄骨・鉄筋コンクリートのスタンドに改装されていた。
横浜では開業したばかりのグランドホテルに泊まった。
当時の競馬は英国式の社交場で、賭け金の最低額は高く、今のように気楽に馬券を買えなかった。
その頃、母は中国財閥の息子と知り合った。
彼は料理人付きの高級住宅に住んでいて、母をよく食事に招待してくれた。珍しい料理が多く、食いしん坊の母は喜んで行っていたようだ。
「もし、中国へ行くことがあったら、自分の名前を出して欲しい。どの地方へ行っても必ず最上の便宜を図ってくれるはずだ」
その若者に母は言われた。
今の中国人とは真逆に違う。今は契約書を交わしてもあっさり反故にしてしまう。
その頃は契約でも借金でも紙切れは交わされず、口約束だけでしっかりと守られていた。だから、保証すると言われたら、本当に徹底的に保証してくれたようだ。母はいつか彼の威光を確かめてみようと内心思った。
モガをやっていた頃の母
ホトショップでカラー化。データが古びていて完全なカラー化は難しかった。
カラー化して分かったことは、Vネックの胸元に肌色の下着をつけていたことだ。
母は豊乳だったので、下着なしだったら胸の谷間が見えていた。
母は浅草など歩いていると「いつぞやはお世話になりました」と地元の地回りに挨拶された。地回りとは裏稼業の人のことだ。
義母は子供の頃から顔を売るのが大好きで、九州の名だたる侠客との付き合いがあった。
だから母も、いつの間にか東京まで顔が知れていた。
仁丹の看板を描いたのは、その頃母は仁丹中毒に罹り止められなくなっていたからだ。
タバコは吸わなかったが、葉巻の匂いは大好きだと言っていた。
そのころ付き合っていた男が葉巻を吸っていたのだろう。しかし、子供として母親の秘密など知りたくないので聞かなかった。
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