昭和花あらし-28、終戦4日前に久留米空襲。2024年7月25日
「昭和花あらし-28」終戦4日前に久留米は空襲されました。
久留米が空襲される噂は2ケ月前からありましたので母は日田へ疎開していました。
母はすぐに久留米へ駆けつけました。
その一帯の家は焼失していましたが、おはなさんと赤ちゃんは無事で、庭の防空壕で暮らしていました。
私はすぐに夫に頼んで、廃棄工事用型枠を使った組み立て式バラックを作って、久留米へ運んで組み立ててもらいました。
おはなさんたちはそのバラックで、昭和20年の冬を凌ぎました。
戦争が終わると、私は八幡の店に居候をしていた南九州の漁師から「米以外なら食べ物は何でも手に入る」と誘われました。それで、私たちはその漁師町へ引っ越しました。
その直前、夫は役所の上司と喧嘩して辞職し、博多に残って闇商売に熱中しました。一時は大儲けしましたが贅沢してお金を使い果たし、昭和23年に漁師町へ転がり込んできました。
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沖縄基地を発進した150機のB24が午前10時ころに久留米の民間地に3万発の焼夷弾を落とした。久留米師団や工場の被害は少ない。米軍機は対空砲火を避けたのかもしれない。
久留米の空襲は余剰爆弾処理と若い搭乗員の訓練の為と言われている。そんな理由で、降伏交渉をしている日本に200人以上の犠牲を強いるのは残酷だ。
その頃は広島・長崎の原爆は周知されていた。久留米は昼間の空襲だったので、原爆投下と機銃掃射を恐れて防空壕に避難し、その中で焼死した人が多かった。
戦後父はサッカリンの密売でかなり儲かったが、贅沢に使い果たした。
母は持ち物も疎開させていた。その着物や古美術品などを売って戦後しばらくは生活できた。しかし、役所を辞めて起こした父の新事業は悉く失敗して借金を重ねた。
上司と喧嘩せずに役所勤めを続けたら、我が家の生活は安泰だった。しかし、それが幸せなのかそうでないのか、最後までわからない。
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