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2024年7月16日 (火)

「昭和花あらし-18」「昭和花あらし-19」満州編。2024年7月16日

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「昭和花あらし-18」大病から回復したばかりなので、週の半分は二日市温泉で湯治していました。初冬の頃には体力は回復しました。いつものように温泉へ向かいましたが、何となく二日市では下車せず終点の門司港まで行ってしまいました。

門司港からは満州の大連行きの連絡船が出ていました。
私は惹かれるように乗船しました。二日市温泉で3日ほど湯治するつもりでしたので、大連までの船賃とわずかな宿代くらいしかありませんでした。

しかし、あてはありました。
大連には満州で興行を手がけて成功している知人がいました。
「もし、大連においでになることがありましたら、必ず声をかけてください」
その人から言われていました。

夜の玄界灘に持っていた洗面道具を投げ捨てました。
心の底まで解放された清々しさがありました。
当時の大陸には無謀な若者を受け入れる大らかさがありました。

翌日着いた大連港は氷結していて、接岸に2時間ほどかかりました。
宿は二重窓で暖房がよく効いていました。
すぐに知人に電話をすると、飛んできて仕事の世話をしてくれました。
仕事は彼の会社や彼の経営するクラブに出勤するだけです。
それだけで内地の何倍も高額な給与を支払ってくれました。

落ち着いてからおはなさんに「無事に暮らしていると母に伝えてください」と手紙を書きました。
返事には、いっちゃんは甲種合格したけど、一人息子で熟練工なので兵役は免除されたと書いてありました。
戦争の気配がありましたが、内地には平和な空気が残っていました。

大連港風景、完成度5%

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母は銭湯に行く感覚で二日市温泉へ行っていた。玄界灘に投げ捨てた洗面道具は銅とセルロイド製で、今のプラスチックのように海を汚染することはなかった。

母のように片道切符で大陸へ行く無謀な若者が当時は多かった。たとえ特高に追われている革命志望の左翼青年でも、満州では普通に就職できた。右から左まで貧富に関係なく、すぐに受け入れてくれる気楽さが満州にはあった。

母は中国語がすこしできたので、どこでも重宝された。
母には興行関係の知り合いは多かった。満州での興行会社の利益は大きく、知人は大きな財を成していた。
だから、母は簡単に一般移住者たちより多く稼ぐことができた。

母は京都にも短期間住んでいたことがある。
その時、映画会社から女優にならないかと誘われたが断った。
「もし、美術方へ誘われたのなら受けたかもしれない」
後年、母は話していた。
もし、小道具作りをしていたら母の人生は変わり、私はこの世に生まれなかったはずだ。運命はそのようにか細い糸を辿るように進むものだ。

母は本当は上海に行くつもりで大陸へ渡った。
横浜で知り合った財閥の息子から「ぜひ上海へ行ってほしい」と言われていたからだ。それで、大連で春まで働いて金を貯めて、それから上海へ行った。

満州で母はヤマトホテルをよく利用していた。
その頃、満州生まれの親友の伯父は満鉄経営の高級ホテルチェーン・ヤマトホテルの総支配人をしていた。人間関係は巡り巡って繋がるものだ。

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「昭和花あらし-19」アカシアの香りが漂う頃、大連を出て上海へ行きました。上海では横浜で知り合った財閥の息子から言われていたホテルに泊まりました。

案内されたのは一番良い部屋でした。
爪切りを頼むと剃刀の達人を部屋によこしてくれました。
中国での爪切りは鋭利な刃物で一気に丸く切ってくれます。
その人は若かったけど上海一の達人で、耳の穴も細い剃刀で綺麗に剃ってくれました。それは本当に心地よいものでした。

食事もサービスも全て最高なのに、どうしても宿泊費を受け取ってくれません。どうやら、私を彼の大切な人だと誤解していたようです。
でも、他のホテルに変えたら彼の面子を潰します。

上海は活気があり、魔都と言われるくらい魅力的な街でしたが、滞在は予定より早めに切り上げました。
お金が余りましたのでチャイナ服を新調したり装身具を買ったりして満州へ戻りました。

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母は大連と上海の移動は日本の船会社所有の連絡船を使った。

上海はヨーロッパの高級な文化と中国の貧困が混在していた。
母が訪れた頃は日中戦争の気配が濃く、若い母が一人で長居するには危険だった。本当は半年くらい滞在する予定だったが、10日くらいで切り上げたようだ。

上海で紹介されていたホテルは根岸の競馬場で知り合った中国財閥の息子の所有だった。「泊まるように言われた」と言うと彼の大切な人だと誤解され最高のもてなしを受けた。
母は人の好意に甘えるのが苦手だ。
当時の中国人エリートは面子にこだわるので、何でもない関係と言うのも失礼だった。それで結局、上海は早めに切り上げてしまった。

絵の参考にした原画をコメント欄にアップしておく。
その絵は母が死んだ後、14年前に満州時代の母の古い写真を参考に描いた。
このチャイナ服は上海のホテルで注文したもので、その日のうちに仕立ててくれた。

髪に花飾りをつけているが、母は子供の頃から花飾りが大好きだった。その趣味は97歳で死ぬまで変わらず、母のどの帽子にも花飾りが付いていた。


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