昭和花あらし-24・昭和19年。2024年7月22日
「昭和花あらし-24」昭和19年、戦争は厳しくなって行きました。
私たちは夫の仕事のために、日田山中の村長宅の離れで暮らしていました。
穏やかに正月が過ぎた頃に久留米の母から、おはなさん念願の初孫の男子が生まれたと手紙が来ました。
でも、お嫁さんは産後の肥立が悪く、寝込んでいると書かれていました。
1月の終わりに母から、お嫁さんが亡くなったと電話が入りました。
私はすぐに久留米へ戻り、母とお酒を持ってお通夜に行きました。
いっちゃんは鎮痛な面持ちで生まれたばかりの赤ちゃんを抱いていました。
深夜、みんなが押し黙ってお酒を飲んでいると、突然、玄関を激しく叩かれて、いっちゃんへ赤紙が来ました。
赤紙はいっちゃんの上司が玄関で受け取りました。
「召集令状をもってまいりました。おめでとうございます」
敬礼をしている配達員の10代の少年から、上司は無言で受け取りました。
それは粗末なピンク色の紙切れでした。
私もおはなさんも、いっちゃんは一人息子で熟練工だったので徴兵はないと思っていました。
「私たちの力不足で、申し訳ありません」
初老の上司はおはなさんに謝っていました。
いっちゃんは終始無言でした。
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一人息子で軍需産業の熟練工。
徴兵が免除される条件に当てはまるが、それでも召集令状は来た。
配達はその日の内に必ず済ますことになっていた。
だから深夜でも、配達先は叩き起こされた。
当時は人員不足で配達員は老人か10代の少年が担っていた。
そして、赤紙がくればすぐに入営しなければならなかった。
赤紙と言われているが、母の記憶では物資不足で薄汚れたピンクだった。
久留米には18師団があった。
最強と言われていて皇室の紋章にちなみ「菊師団」とも呼ばれていた。
強い師団だったので戦死率も高かった。
私の叔父、母の弟も18師団に属しインパール作戦で戦死した。
だから母はよく靖国神社にお参りしていた。
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