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2024年7月 4日 (木)

昭和花あらし-8。2024年7月4日

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「昭和花あらしー8」
お正月前に、母は遊廓からおはなさんを家に帰しました。
「千代しゃんが、おはなさんを身受けした」と評判になり、母はとても喜んでいました。


その頃、猪太郎さんは博打のせいで杜氏の仕事をしくじりました。
でも家に帰らず、他の女性の世話になっていました。

おはなさんは切なかったと思います。
だから花見の宴で、いつまでも踊り続けたのだと思います。

「おっかさんまで押し付けられて、こんなことなら遊郭にいた方が楽だった」
おはなさんが母に文句を言っていたことがあります。
でも本心ではありません。
おはなさんは、いつも優しく姑を世話していました。

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当時「女が女郎さんを見受けした」と久留米で評判になったようだ。顔を売るのが大好きだった祖母は、その評判が嬉しくてならなかった。だから、費やしたお金には全く執着がなかった。

猪太郎は夢から覚めたように博打はやめたが、他の女たちが彼を放って置かなかった。女好きの性格までは治らなかったようだ。

赤ん坊だった養女の母の世話をしたのは養母の父親甚平だった。
彼は母が物心つくと料理を教えた。釣りが好きだった甚平は郊外のクリークでドジョウを獲ってきて、幼い母にドジョウの捌き方と柳川鍋の作り方も教えている。だから、母は実に上手にドジョウを捌くことができた。
そのように、母の和食の知識のほとんどは甚平が教えてくれたものだ。

家のすぐ近くに久留米師団の将校クラブがあった。
母は4.5歳のころから、その厨房を遊び場にしていた。
厨房で珍しい料理ができると料理人たちは母に試食させてくれた。
高価なものを食べさせてくれたのは、祖母が料理人たちに過分に食材費を渡していたからだと思う。

母はそこで初めてチョコレートなどの洋菓子を食べた。
ビーフシチューなどの洋食の作り方はその厨房で自然に学んだようだ。

そして母に手芸・裁縫を教えたのはヤクザな義父だった。
母はそのように男たちから料理裁縫を教わったわけだ。だから後年、私が料理や裁縫をしても否定せず「上手上手」と褒めてくれた。
それは結果的に、私が介護上手に育っことに繋がり、母は楽な老後を送ることができた。

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